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そのときその場所にいなければ分からなかったことがある




真夜中、新生児に授乳しながら、韓国で韓国語を勉強していた時のことを思い出した。

語学を学ぶ機関での留学経験は、ほかの留学経験とは違う、特別な経験だ。
一つの言語を習得していくという過程で、言語の習得という漠然とした目的だけを共有して、一緒に階段を登る感じ。

当時韓国で働いていた学院(塾)の仕事は午後からで、私は午前中の3時間、ソウル市内の大学付属の韓国語クラスに通っていた。そこの語学堂に決めたのは、そのとき住んでいた家から近かったのと勤務地までの便が良かったから、そして大学付属の語学堂のなかで学費が一番安かったからで、それ以上の特段の理由はなかった。そこには、2級(初級)から4級(中級)まで3学期間通った。

その語学堂にいる学生は、中国出身の子たちが9割以上だった。そこに中国の留学生が集まっている理由は、大学側がビザ関連の手続きに協力的だとか取れやすいとか、そんな理由があったらしい。どのクラスでも、中国人以外の学生はだいたい私一人で、休み時間はずっと中国語が聞こえていた。

中国人留学生といっても色んな学生がいた。
華奢で可愛い女の子達の何人かは、語学堂内で彼氏を作っていた。その語学堂内カップルたちは、軒並み男の子の方がものすごく献身的で、送り迎えを始めとして宝物を扱うように彼女をいたわる姿が印象的だった。特に、毎日休み時間の度に国際電話でお母さんと電話しているとても可愛い女の子がいて、その子の彼氏は本当に何でも彼女のいうことを聞いてあげていた。

兄妹でやって来て、優秀な妹とその夢を叶えるため、自分を犠牲にして彼女に尽くす兄もいた。妹の方は韓国語を頑張ってソウル大学に入学する、という明確な夢があったようだが、兄はその聡明で美しい妹を守り助けることを最優先に生活していて、勉強はほとんどしていなかった。突拍子もない発言と明るい性格で、彼のおかげで授業はとても楽しくなったけれど、彼自身の将来については本人があまり期待をしていないように見えた。妹と同じクラスになったとき、「自分のために生きてくれているお兄ちゃんが大好き」と授業中、韓国語で言っているのを聞いた。

韓国の男性と結婚して家庭に入り、姑さんや家族と話すために韓国語を学んでいる子もいた。ものすごく金持ちの子だけど遊んでばかりいて、ドロップアウトして行く子もいた。語学堂では学期に二回大きな試験があり、ある程度の基準を満たさないと進級できない。なかには韓国に来たけれどアルバイトや恋愛や夜遊びをするなかで勉強する目的を失ってしまっている子で辞めて行く子も何人もいたし、勉強には取り組んでいるけれど語学の習得ができない子(おそらく何らかの学習障害を持っているのだと思う)もいて、級が上がるごとに何人かがいなくなっていった。

偶然だが、仲良くなった中国人の留学生は、寒い東北の省の出身者が多かった。北部出身の彼らは休み時間に外に集まって煙草を吸いながら、広い中国では地域によって人柄に特性がある、と言い、たぶんいわゆるステレオタイプなのだと思うのだけど、南の人間はこうだ、俺たちには合わないんだ、といい、あまり積極的に他地域の学生とつるもうとしていなかった。見ていると、上海出身の子達はその周辺出身者とつるみ、南部出身の子達も同様で、出身地域が近いもの同士で仲良くなっている印象を受けた。

東北部の出身者の中には朝鮮族の子達もいたが、朝鮮族だけど韓国語(朝鮮語)はほぼできない、という子たちは中国アイデンティティが強く、ビザ上は朝鮮族のビザでも、朝鮮族という括りで固まっている様子はあまり見られなかった。朝鮮族以外の子達に比べて、韓国へのビザがおりやすいという理由は確かにあるようだったが(当時)、だからといって心理的に韓国に近いという印象もなかったように思う。加えて、朝鮮族のビザで来ている子達は、多くが韓国の大学進学や語学習得自体を目的としている他の漢民族の中国人の子達と違い、より多様な目的を持っているようだった。たとえば就労であったり、結婚であったり。そういう子達は、留学生として韓国語を学んでいるグループとはあまり交流もしなかったし、授業後に一緒にご飯に行ったり、遊びに行ったりという姿もほとんど見られなかった。



中国の子たちばかりの環境で疎外感や居心地の悪さを感じなかったのは、中級になってだいぶ韓国語での意思疎通ができるようになったこと、私に話しかけてくれたり構ってくれる中国人の子達が何人もいたからだと思う。

Sは初級のクラスで出会った日本人の女の子とつき合って、毎日何時間もスカイプばかりしていた。恋愛して、バイトして、稼いだお金を全部自分のファッションと彼女へのプレゼントに費やし、一度留年して、あとから入った私と同じクラスになった。相変わらず勉強はしていなかったけど、会話は上手で、減らず口を叩くのに語学堂の韓国人の先生たち(ほぼ全員女性だった)にもすごく好かれていた。母性本能をくすぐるタイプの不良だったのだと思う。

Hは中級での席がとなりだったので、授業中によく韓国語と中国語の混じったメモを交換して遊んでいた。私が好きな台湾歌手の歌を聞いて、聞き取れない部分を書き起こしたりもしてくれた。毎日数時間の睡眠で、深夜営業をするチキン屋さんの早朝清掃のバイトをしていた。(私から見れば)差別的な扱いを受けながらも、雇用者を「社長様(さじゃんにむ)」と呼び、時給400円位(当時)で毎日朝2時間働いていた。中国では割とキラキラネームっぽい変わった名前をしていて、複数のクラスにまたがって友人がたくさんいてよく声をかけられていて、クラスでもムードメーカーだった。

Yは中級のクラスで私の次に成績が良かった。中国人留学生のなかではすごくまじめに勉強をしている方だったし、授業中もよく質問などもした。性格もまじめで、いつも割ときちんとしたカッコをしていた。一方、私や上記の二人と仲良く遊んで、クラスでも二人とは違った意味で周りに刺激を与える存在だったと思う。その後、韓国でも有名な私立大学に合格し、その後ソウルに行ったときに一度会った。韓国語は格段に上手くなっていたが、韓国人学生に囲まれての生活と勉強は大変だと言って、少し痩せていた。

私の帰国が決まったとき、上の三人とカラオケに行った。Sはおばあちゃんから教わったという「四季の歌」を日本語で歌った。日本語は全く分からないけど、音で覚えているという。Sはその言葉を使わなかった(おそらく韓国語でなんというか分からなかったのだと思う)が、「戦争のあと日本に帰らずに中国(元満州のあった地域)に残っていた」と言っていたから、たぶんおばあちゃんはいわゆる残留孤児だったのだと思う。所々歌詞の適当になるその「四季の歌」を聞きながら、時代を越えて、日本人の彼女に熱を上げるSに受け継がれた日本とのつながりを、なにか切なく思った。




そのときその場所にいなければ分からなかったことがある。韓国語を学ぶ過程で、私はたくさんの中国人留学生と会った。ただ一緒に同じときを過ごしていた人もいれば、ただ一方的に観察していた人、中には一緒に深い時間を過ごした人もいる。そこで知ったことや感じたことのひとつひとつは本当に些細なことだし、中国人学生の韓国語語学研修留学という事象の1ケースで、ひとりの多様な人生のほんの一面に過ぎない。でも、そこで一緒に同じ時間を過ごし、会話し、出来事を共有したからこそ知り得た何かもたくさんある。自分のなかに知識と経験が溜まって行けばいくほど、その特殊性や意外性に気づき、それらがとても豊かで魅力的なことを知り、少しずつ寛容になっていく。

私にとって国際的であるということは、自分の受け皿がどんどん広くなっていくことと同義だ。

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