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「おめでとう」への違和感、後日談。
先日のポストの最後に書いた、妊娠→「おめでとう!」と言われることへの違和感について、私の伝え方に問題があって、意図がうまく伝わらなかったような気がするので、現在考えている範囲でその違和感の正体について、書いてみたいと思います。

前回私は妊娠して分かったこと、感じたことなどの最後に、こんなふうに書きました(そのまま抜粋)。

今回のことに関して、万が一お祝いの気持ちを持って頂ける際には、謹んでお気持ちだけ頂き、おめでとう系の言葉は固辞させて頂く(なんだか自分以外の人間への配慮がないし粋ではない気がしてどうも腑に落ちないので)。でも先人の方々からは、是非お腹の筋肉を如何に保つか、体重コントロールの仕方、だるいときの気合いの入れ方、子ども関連の保険、頭に来るアドバイス狂たちとのつき合い方など、ざまざまなテーマで体験談を聞きたいなと思う。

これに関しては、まず相手がどういう風に反応するか、そして私のブログをどこまで読むか自体も相手次第なので、「こういう風に言わないで欲しい」ということ自体が傲慢だったように思います。実際、私にコメントをくれる人は、皆ものすごい優しい気持ちや愛を持って気持ちを伝えてきてくれたので、友情や信頼に感謝するとともに、私は自分の傲慢を恥じ、その上でなぜ「ありがとう」に違和感を持つのか、今考えていることを共有できればと思っています。


「おめでとう」の使い方について。
私の博士号取得は「おめでとう」でいいと思う。努力して手に入れたものだから。出産も、10ヶ月乗り越えて、分娩っていう努力をした結果。そして誕生日もおめでとう。誕生日はなんだかもうテンプレになっている。しかし私は妊娠=おめでとうをテンプレ化することにも抵抗がある。何故かというと、妊娠という現象は努力じゃなくて、ほぼ運で、先天的な要素も多く、そしてとてつもなく不平等だから。欲しい人には授からないで、望まないのに授かることもある(私は今回望んだ妊娠だったが、一般論として)。

世の中には流産したり、体調や年齢やタイミングの問題などで産みたくても産めない人がいっぱいいるわけだ。それでも、妊娠できないということで、女だといわれのない批判をされたり、周りからプレッシャーを受けたり、精神的に大変な思いをしている人を、直接的にも間接的にもたくさん知っている。妊娠できるか、子どもを産めるか産めないかで女としての価値や幸せを判断されてしまう風潮は明らかにあって、私はそれにまったく賛同できない。

「おめでとう」と言うと、その運で不平等で、その人の努力でもなんでもないことを祝い、まるでその人自身がでかした!また、それが幸せの姿だ!という一方的な価値観に自分が加担しているようで、まず違和感を感じたのだと思う。


もう一つは、人間関係における「いいとこどり」みたいな風潮への抵抗感もあると思う。
妊娠を公開するとまずそれほど付き合いのない人からも尋常じゃない数の「おめでとう」がやってくる。誰かの悩みなどをきくよりも、良いと思われる報告に「いいね!」をして、「おめでとう!」という方が楽だからだ。しかも、人を祝うことで自分もいい人になれるし、もしかしたら少し幸せな気分になるのかもしれないし、リスクもない。普段、人が丹誠込めて書いた政治的主張や意見などの投稿には見向きもしない人も、人の幸せと思われる報告にはそれこそ簡単に便乗する。それは人間としてものすごく自然なことだと思う一方で、いいとこ取りのような気がして、私自身は他人に対してこういう態度を取ることができない。そしてひねくれものの私は、そうされると「こんなときばっかりなんなんだろう」、と思ってしまう。

この「規範的幸せ」や「いいとこ取り」への違和感は、他のことにもつながっている。
普通とは違うものに対するタブー視や、いわゆる可哀想目線なども、特に日本の人達によるFacebook投稿を見ていると感じる部分だったりする。幸せな結婚、望んだ妊娠、健康な子ども。こういうもの以外にはなるべく触れないことで、色んな幸せの形、もしくは「他の人と違うから幸せじゃないのかも?」と感じている人を排除しているように感じる。正直、自分の子どもが障がいをもっていたら、この社会で育てるのは可哀想だと感じる。多様性への免疫がなく、一方的な価値観で相手を判断し、見なかったことにして回避されるから。

長年様々なSNSとつき合っているものとして、Facebookによる幸せの一方的報告勝ち、みたいな雰囲気があまり好きではない。私の書き込みのほとんどはいわゆる「幸せ報告」ではないので、私の書き込みを好きではない人も多いとは思うがそれで全く構わないと思っている。読みたい人だけ読めば良いし、目に入るのもいやなのであればミュートしたりunfriendしてもらって一向に構わない。私の個人的考えだけど、facebookみたいに(Twitterなどと比べれば)閉じたSNSだからこそ、もう少し多様性のあるコミュニケーションが取れる場だと面白いと思う。




前回のブログにも書いているが、おめでとうと言ってくれる気持ち自体は嬉しい。その気持ちが伝わるものならなおさらだ。今回私は、妊娠自体のおめでたさではなく、妊婦という立場にたって感じたことで伝えたいことがいっぱいあった。主に日本社会における妊婦の扱われ方についてだったのだが、今回はそれがうまく書けなかった(なぜならまだまだもやもやしているから)。結果として妊娠の報告でしかなく、もちろん写真だけみて条件反射してくれた人もいる訳で、私こそが「おめでとうほいほい」のような投稿をしてしまったことも、書き手として失敗だったと思う。これは表現するものとして反省すべき点である。




東京が恋しい夜。
9月1日@ハワイ大学
| | 22:47 | comments(0) | - |
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