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花秀



26日の夕方、小さい頃私を育ててくれたおばあちゃんが他界しました。25日の夜、家で頭を打って意識を失って病院に運ばれ、次の日に予定していた手術もできずに、最後は私の見ているなかで、ちょっとずつ呼吸と心臓を止めました。慢性硬膜化血腫で、死の直接的な原因は後頭部の打撲だったのだけど、その前から脳の中に血がたまる病気だったようです。

倒れた25日の夜は、暖かい春のような風が強く吹いていました。その夜、「倒れた」という電話で呼び出されて実家まで行ったけれど、ICUにいるおばあちゃんには会いにいけず、終電で多摩川まで戻り、暖かいねと言いながら陽と歩いてから5日間、嵐のようにばたばたして、物理的に眠れない非日常が続きました。30日の今日、やっと告別式が終わり、皆が自分の家に帰ってゆっくり眠れるのに、おばあちゃんのいないバージョンの日常は、いつもと違う気がします。

死んだ日は、病院に運ばれてから24時間以内に死んだから、という理由で警察がきて事情聴取を受け、次の日の朝検死がおわってやっと自宅に帰ってきて、それから2日間、おばあちゃんとおじいちゃんの家で親戚一同交代で寝ずの番をしました。


私たちが人間の考えついたこととして賞賛すべきこの世のすべての事象は、1人で向き合ったら大変なことを、皆で一緒になんとかやろうとしているその工夫のことだと思います。「死ぬこと」という他人の圧倒的な現実を目の前にして、そこからその喪失を乗り越えるためには、たくさんの段階が必要でした。お焼香をすること、冷たい体に触ること、皆の弔問を受けて死んだいきさつを話すこと。顔に白い布をかぶせること、お線香、ごはんに縦に突き刺すお箸や、好きだったのに前に置いても減らないカステラ、持ってきてくれるお花が白ばかりなこと。布団に寝ていた遺体を普段は絶対にそんなところには入りたくないと思うような四角い木の箱の中に入ること。60年くらいずっと住んでいた場所をでて、お寺に向かうこと。そして最後には体を焼かれること。小さい階段を上ることで少しずつ心の準備をして、最後に待ち構えた大きな階段のときに息切れしないように、一気に登りきれるように、皆で一緒に行動してきた気がします。

故人に対する心持ちは人それぞれだし、個人間の温度差を感じるのは時に辛いこともあります。告別式の手配から席順、挨拶の段取り、当日の役割分担とその妥当性。本家とその伝統を大事にし、男子中心社会で親戚付き合いの強い母の実家では、私には受け入れ難い考え方もあるし、出過ぎたことを言ってきた葬儀屋や手伝ってくれる親戚に腹の立つこともあったし、決してみんなでいることそれだけを幸せとは思いません。でも、「おばあちゃんのいる現実」と「おばあちゃんがいない現実」の間に、こういう非日常があって、それを1人ではなく多くの人で一緒にやってきたことが、少なくとも私自身を大きく救ってくれた気がしました。


おばあちゃんは最後、誰にも迷惑もかけず、苦しむ姿も見せず、残されたものには孝行な人だなと思いました。

世話好きで明るい人で、私が遊びにいくと嬉しそうな顔をして、いつも大量のごはんを作ってくれました。そのうち、私が行くと「お前を背負っていつもコーポ内田の前の坂を上ったんだよ」という30年くらい前の話を涙目になりながら繰り返し言うようになりました。そしてそのうち、その話もしなくなって、最後に会ったときは私を見ても笑わなかった。今思えば、全部脳の病気のせいだったんだ。でも私たちは分からず、ただ昔と変わったおばあちゃんを見て、悲しくなっていたように思います。

横須賀の久里浜に住むおばあちゃんたちと過ごして東京や横浜に帰る時、何度ものタイミングでおばあちゃんたちと私が一緒に過ごせる時間が限られていることを実感してきたのに、その焦燥や切ない気持ちは離れると薄れ、会っては思い出し、ということを繰り返していました。時間は、この世でもっとも圧倒的なものだと思います。自分ではどうにもならない時の流れに対して、なんども抗おうと、せめて時間がもたらすものに置いて行かれないようにしようとしたのに、やっぱり私は追いつけなかった。いつのまにか、取りこぼしてはいけない時間をどこかに置いてきてしまったような気がして、自分のふがいなさに絶望的な気分になります。


私は心がひねているので、皆がおいおい泣いている場面ではあまり泣けません。でもおじいちゃんのことばには、いつも涙がでました。もうだめだよ、もういいよ、俺は告別式行かない訳にはいかんべなあという弱音や、軍事部で一番の美人だったという惚気。弱音や諦めのことばを繰り返しながら、最後は、いままでありがとうなあ、世話になったなあ、幸せだったと言うところまで聞きました。おじいちゃんとおばあちゃんはこの時代には珍しい家柄の違いも乗り越えた恋愛結婚で、おばあちゃんは脳の病気が進行するまではいつも、おじいちゃんが一番と言っていました。一番ってなんて幸せな言葉だよね。


花秀は、おばあちゃんいついた戒名の最初の2文字です。
名前から1文字、そしてお花が好きだったので、そうつけたそうです。
戒名って普通は6文字なのに、8文字もあるよ、とおじいちゃんが満足そうにしていました。
写真は、私が撮りました。2013年に久里浜でやった最後のお正月、久しぶりに紅を塗って、私がしていたストールを巻いて、綺麗と言われて嬉しそうにしていたときです。私が最後におばあちゃんに会ったのは今年2014年のお正月でした。





真冬の春風が魂を運んで行って、今日、久しぶりの雨がざあざあ降って空をピンクに染めたら、私の非日常の幕が降りました。

明日から通常営業に戻ります。

申し訳ないけれど、防衛大学校は1週間すべて休講にさせてもらいました。インフルエンザ?と心配した学生が心配してメールをくれて、とても嬉しかったです。市大は学生のプレゼンと期末試験のため休講にはしなかったのですが、4限のクラスも、言葉につまってしまったような気がして、申し訳なく思っています。5限のテストの時間、監督をせずに先に帰らせてもらったおかげで、お通夜に間に合うことができました。みんなが快く送り出してくれて、本当に助かりました。どうもありがとう。



写真は、教務班3班の学生が送ってきてくれたもの。人文社会系なので、女子学生が3人もいる優秀な班です。
| | 01:28 | comments(0) | - |
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