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studygiftについて思ったこと。気持的支持と方法的問題点。(下剋上を起こせるシステムなのに、結局、階層強化になっていない?)
studygift 〜学費支援プラットフォーム〜という、個人への学費支援サービスが議論を巻き起こしている。

基本的には、支援する人がちゃんといて、好意と感謝で成り立っているのだからいいのではないかと思う一方で、
何故あれほど拒否反応を起こす人が多いのか、っていうところがどうしても気になること、私自身もあのシステムが抱えている爆弾みたいなものに引っかかってしまったので、私なりに考えたことをここに書きたいと思います。


はじめに。
studygiftのアイデア自体はとても魅力的で、今後もこういう活動が続いていったらいいなと思う。
そして、自分も自分の奨学金を返し終えたら(来年の3月に終わる)、今度はこういう形を通して学生を支援できる立場になりたいなと思う。
サイトのデザインもかっこいいし、支援している人たちの顔ぶれも何とも説得力がある。彼女(坂口綾優ちゃん)には一度だけ会ったことがある。私と同じ早稲田生で、代が離れているので一緒に在籍したことはないけれど、「○○○(私の入っていたサークル名)の後輩です!」って「わせだのわ」飲みのときにわざわざ挨拶しに来てくれた。
遠いけれど、やっぱり可愛い後輩愛的なものも含めて、私の立ち位置は「サービスのプレゼン方法には異論があるけれど、気持ち的には支持したい。」というところにあります。



私が思ったことは、3つ。

お金に対する私たちの潔癖さ。
お金がないのにはいろいろと理由がある。
けれど、「お金をもらっているのに遊んでいる」ことに対するこの社会の抵抗は半端なくて、生活保護問題と同じように私生活の隅々まで暴露されてたたかれるってこと、今回のことで本当に実感した。
この社会の人々は、「おしん」みたいなのは大好き。
でも、お金を恵んでもらって無駄に使っている(と端からは思われる)人への反発は半端ない。
「支援」や「寄付」のお金をもらう人は 、それなりの不幸さがなくてはお金を出す人が納得しない、という世間の風潮は本当に悲しいと思う。
ここ(Google+日本一の早稲田大学 坂口綾優さんが旅行で遊び果てたあげくに成績不良で奨学金打ち切られネットで公開乞食をして炎上 )にあるように、旅行に行ったことを指摘して「そんなお金があるなら・・・」というのはこの社会では正当性をもって当たり前のように吐かれる台詞だ。もちろん限度はあるけれど、誰かを応援しているのなら、その人が必要と感じてすることに対する応援をするべきであって、いつまでも「ひも付き援助」みたいな概念を人の生活にまで持ち込むのはやめたほうがいい
私は、お金のない理由をプライベート晒して全部公表するべきだともは思わない。


だとしても、お金を出すという行為は、まず何かそのコンテンツへの「個人的思い入れ」や渡すだけの正当性や見返りがないとできないというのは、(善し悪しは別に)この日本社会に住む多くの人の傾向であると思う。
だからこそ、お金のない理由として、奨学金が切れたから行きたくても大学に行けない、という理由だけをプレゼンしたのは失敗だった。その正当性のなさはすぐに突っ込まれてしまうからだ。
早稲田大学出身として、そして早稲田の大学院生として私が言えるのは、学部生のときによい成績を取るのは、それほど難しいことではない、ということ。とにかく、相対的な人数も多いし、真面目に勉強に取り組んでいる人間も、大学院に比べたら圧倒的に少ない(その善し悪しの問題はとりあえず置いておいて)。誰かも書いているように、JASSOの奨学金(*1)は、1種にしろ2種にしろ、よっぽどサボって単位を落とさない限り止まらないのはすぐわかることだからだ。だから奨学金が止まったから、という理由だけでは、人々の反感は買っても、共感を得るのは難しい。


ネットでは伝わらない魅力。
では、本当に彼女は大学に行きたいのか?なぜ行きたいのか?
この部分がわからなかったことが、読んでいる人たちの違和感を助長させていると思う。寄付を得るための魅力として彼女(とそのプロデューサー)がアピールしているGoogle+日本一やiPhoneで撮り続けている写真と、大学に戻るということのリンクがよくわからないのだ。そもそも彼女が今までサボっていたのになぜ突然、やはり大学に戻った方がいいかなあと思ったのかすらわからない。今のままでは、面白いことやって成果を出した子が、そっちとは別に「普通の大学生」をやるために学費がほしい、ということしか伝わらない。それだったら、学習目標を出せとか、苦学生しろという批判も的外れになる。それでもただたんに卒業し、新卒の資格で就職を得たいと思っているのであれば、その彼女自身の人生設計やこれからのプランを彼女の言葉で伝えるべきじゃないかなと思った。


でも、書いてあることをゆっくり読んでも、彼女の声は聞こえてくるようで聞こえてこない。
彼女は周りの人のプロデュースによって、あまり自我を出さずに、写真や定期的に面白いコンテンツを配信する女子大生として有名になった。
Google+ を見ても、ツイッターを見ても、彼女の発信することはとても無機質で、いくら面白いサイトを見つけてアップしても、いくら話題になりそうな写真をアップしても、それはコンテンツ配信者としての彼女であって、彼女自身の魅力とは伝わっていない。発信する彼女のビジュアル的な可愛さだけ。サイトを見ても、魅力的なのは、「Google+で1位になった」みたいなラベルの部分だけに感じてしまう。そして少なくとも、私にとってネットから分かる情報では、魅力が伝わらない。

彼女の人間性や魅力は、会ったことのある人を中心に、一部しか分からないのだと思う。
(Google+で日本一になる前から、SNSでの人の集め方などをずっと教えて支援して来たヨシナガさんのように)
そして会った人は、魅力的な子だからこそ困っているなら助けたいと思い、サービスを作るきっかけになったのかもしれない。
でもそれは、対外的には伝わっていない。
少なくとも、多くの人には反感や批判を受けてしまい、彼女自体に非難の矛先が向かってしまっているのは、とても不幸なことだと思う。


下剋上を起こせるシステムなのに、結局、階層強化になっていない?
学校に行きたいけれど、学校にいけない魅力的な学生の学費を支援する。
そして世の中にはお金のせいで大学に行けない人がたくさんいる。
とにかくみんなと同じように普通に学校に行って勉強したい、大学生活を送りたい、というのであれば、今後このサービスがほかの人でも活用出来るようになるサービスにならなければいけない。今回広告塔になって叩かれた彼女も、彼女の言葉としてそういうお金がなくて大学をやめた人を助けたいからと書いているし、創始者の家入さんやチームのメンバーも、彼女を皮切りに、多くの学生を支援する仕組みを作りたかったと言っている。(「ただ困っている学生を助けたかった」)。
ならば、彼女を助けることをできても、他の人を助けるような可動性の高いサービスにならず、一過性のもので終わってしまうのは本意ではないだろう。

確かに、本当に裕福でなくて困っている人を助け救う為の組織や仕組みが、すでに名声のあるいわゆるできる人の支援から始まるのは、多くの人の共感を得る上で有効かもしれない。でも、それが結局できる人・できない人、持っている人・持っていない人の格差を広げ、下剋上のできない風潮が生まれるのは怖いと思う。私が今回感じた爆弾的な恐ろしさは、そこだった。


既存の奨学金システムは、「成績がいい」か「わかりやすくお金に困っている人」のためのサポートシステムだ。
今回の彼女の場合は、どちらにもケチがついてしまっているために、これほどの批判を浴びているのだけれど、どちらにも当てはまらない人への学費支援というのもこれからはあっていいと思うし、その意味でStudygiftには可能性を感じる。

Studygiftでは、JASSO(学生支援機構)や大学の奨学金と異なり、大学で勉強したいことに関するもっともらしい作文や、やたらと勉学への熱意を書かされる申請書や、家庭の貧困事情などの条件がなく、何か「一発」を持っているとか、こんなことがしたいとか、プレゼン方法の如何によって幅広い人から支援を集めることができる、という点だと思う。 それは政府組織や大学ではできないことだし、かつ、政府や大学の奨学金が行き届かないところまで、支援の手を広げることができる。


私はこのサービス、大学が一般的に持っている形式的な条件の多い奨学金ではフォローできない学生にお金を渡すことのできる、すごく可能性のあるシステムだと思うからこそ、一人目の彼女が「〜をした」、「〜になった」っていうすでに持っているラベルしかアピールしていないのはとてももったいないと思う。早稲田のような割合恵まれた奨学金体制を持つ大学生で、すでに強力なサポーターがいるような子だけではなく、今まで社会の恩恵に預かれなかった人がアピール一つで出て来て、そういう今まで支援の行き届かなかった人たちに柔軟な対応ができる、今「持っていない」人が「持てる人」になる、下剋上ができるサービスなのに、結局すでに何かを「持っている人」をより支援するための道具になってしまうのは、怖いなと思う。
それじゃあ、権力組織と同じ。民間レベルですることは、もっとボトムアップアプローチで、既存の階層性や不平等を越えるような機会を提供することなんじゃないのかなと思う。


(*1)
JASSOや校友会の奨学金を得るためには2つの条件が必要となる。
ひとつは境遇条件であり、もうひとつは努力条件である。

境遇条件とは、奨学金を受けるための前提となる「お金がない」理由。兄弟が多くて扶養してくれる両親の所得が少ないなどの根本的なものから、自宅から通えるのか一人暮らしをせざるをえないのか(地方出身なのかどうか)などの学生本人の意向ではどうにもならない境遇のことを指す。

努力条件とは、入試成績や学業成績、申請の際の申請書に書く論文や課外活動など、本人の努力で得てきた経験や能力。

もちろん努力条件だけ(とにかく成績がいい)で受けられる奨学金も多いし、
ほぼ境遇条件だけ(両親が不在など)で受けられる奨学金もある。

ただし、ほとんどの人は上記のような極端な条件を持ち合わせていないため、
境遇条件と努力条件の組み合わせになる。
彼女の場合、境遇条件があまり明らかではない(学費を一人で稼いでいるが、それがなぜなのかわからない)という部分と、努力条件を明らかな自分の努力不足でクリアしていないようにしか見えない、という点で、批判を得やすくなっている。





院にきて思ったのは、大学っていうのは(特に早稲田みたいにでかくて下手なことができない大学は特に)、頑張れば何とかなる制度をちゃんと持っているんだなと思った。学部の頃、成績が良くてほとんど学費を奨学金で出していたやつも周りにいたけれど、私自身は学部生のときに単位もろくに取らず旅行ばっかりしていた、不真面目な学生だった。早稲田の中には、単位落としてなんぼ、成績の良さと人間の面白さは、比例するどころか反比例するような風潮すらあったと思う。そして実際に、授業にでてなくて、大学の勉強以外のことで面白いことをやっている人間はたくさんいて、早稲田にいることの面白さもそこにあった。まじめに勉強してしこしこAを稼いでいるようなやつは、正直あまり面白くなかった。

でも今覚えば、ちょっと頑張ってA集めて、奨学金取るっていうのもなかなかかっこよくていいものだったんじゃないかと思う。
頑張れば(説得力のある成績をとれば)奨学金をくれる大学にいるならなおさらのこと。
早稲田なんて、そういう意味では学内学外含めていろんな種類の奨学金があって、本当に恵まれている。

だからこそ、早稲田みたいな「曲がりなりにも」有名で学生支援の充実している大学の学生じゃなくて、もっと奨学金もなかなかチャンスがないような学生がどんどん支援してもらえるようなシステムになればいいなと思うし、それで誰かに共感したら、ぽんっとお金を出せるような大人になりたい。


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