2012.01.15 Sunday
FacebookのWall投稿を何故うざいと感じるか (らーめんとこどもの写真をめぐって)
Googleで「facebook うざい」と検索すると、どうやら私のブログが一番上に来るらしい。
そのせい(おかげ)でたくさんの人に読んで頂いているようなので、コメントを含めて、少し加筆・修正しました。
(2012年9月18日追記&修正)
_____________________
このブログを書く前に、フェイスブックのWallにつまらない(と私が感じる)書き込みが多いことの不自由さについて、Twitterに書き込みをいました。以下がその全文(3回に分けて投稿)。
「私はfacebookとツイッターではどちらも同じくらいの人(800人)をfriends設定&フォローしているが、ツイッターは自分の好きな人だけをフォロー、Facebookは友達から申請くれば拒否ることはないので、断然ツイッターのほうが納得いくTLになっている。
FBのWallには、疲れる。なぜならフェイスブックのWallで見るものは、自分の嗜好を反映していないからだ。
もちろん全員、「友達」だけれど、友達には色々な種類の「友達」がいる。
特に最近、日本の友達がFacebookに大勢(おそらくmixiから)移行してきて、一日何度も自分のこどもの写真やラーメンの写真をUPしている。私の800人のFriendのうちおよそ600人近くは「日本人」以外の友人なのだけど、外国籍の友人たちはニュースや、面白い情報や、人生で起こった大事な瞬間の共有を、ある程度「昇華」させた形でアップしている人が多いけれど、私の体感では、なぜか日本国籍の友達は個人の日常の、他人にとってはどうでもいいことを気軽にアップする人が多い。
フェイスブックで見たくない人はUnsubscribe(購読停止)するか、Only important eventだけの購読にすればいいとは分かっている。数が多くて面倒くさかったけど、とりあえずツイッターと連動しててどうでもいい書き込みが多い人と、こどもや食べ物の写真ばかり連投する人をUnsubscribeしました。」
_______________________
ツイッターとFacebookが圧倒的に違うのは、
購読したいものを選択するときの自由さが、ツイッターの方が断然勝っているということ。
Follow/unfollowとFriend/Unfriendでは、つながり方も、精神的負担も、だいぶ違う。
Facebookでは、「友達」だと Friendにならざるを得ない
→ 彼・彼女が書くものは(恣意的操作をしない限り)自動的にWallに出現し、強制的に見させられる。
見るものに対してつまらないと感じた場合、もっとも安易な解決方法としては、「友達」をやめる(Unfriendする)か、「購読しない(Unsubscribe)」(「友達」は外さないけれど、Wallには表示されないようにする)という選択肢をとるのが一番現実的であり、「そうすればいいじゃん」と言う人もいるかもしれないが、このような問題は私だけではなく、多くの人がSNSに抱く「人間関係の面倒くささ」にも共通するもののような気がする。
「読みたくないものはたとえ友達の投稿でも視界に入らないようにする」というのが最適な方法であると言い切ってしまう前に、何故このような問題が起こるのか、何故このような投稿が不快感を与えるのか?について考えてみたい。
☆
残念ながら、自分が入れ込んでいるものは、他人にとってはどうでもいいことがほとんどである。
よくツイッターやフェイスブックでつまらないと批判を受けると、
「私(俺)は、自分の記録のためにやっている」という人がいる。
私は、この意味が全く分らない。
自分自身の記録や考えの整理のため「だけ」にやっているのなら、Public(公開)にせず、
日記でも書くか、Mac Book上にアルバムでもつくってそこに写真を溜めていけばいいのだ。
それでもあえて公開するということは、どこかで人に見てほしい、反応がほしい、という欲求があるのだろう。
自分が大事に思っているものを、見ている人にも分ってほしい、好きになってほしい、ポジティブな反応がほしい、と思っている。
そこまで積極的な願望じゃなかったとしても、Like(いいね!)されたら嬉しい、「可愛い」、「美味しそう」って言ってもらえたら・・・というのをどこかで期待してるのではないか。そうでなかったらパブリックにする必要がないのだ。
それはらーめんでもこどもでも一緒である。
言っておくが、私はらーめんもこどもも、別に嫌いではない。
友達がアップしているらーめんをみて、食べたい!とおもって調べたこともあるし、
友達がアップしたこどもの写真にLikeをつけて、可愛い!、いい表情だなあ、みたいなコメントをしたこともある。
ただし、実際にそう思いうる投稿に対してのみ、そうしている。
だから、心情的にそのテーマは見たくない、嫌い、という感情とは違う。
(追記1:コメントの中にも、「こどもに反応するひとは、それに対してなんかあるんじゃない?」との意見もあった。「なんかあるひと」の存在については否定しない。人それぞれ、心に持つものはあるからだ。しかし、何かに関する人の意見に対して、「そう思うのはお前になんか(ネガティブな感情や劣等感やなんか)があるからだ」と一方にその発言者の心情を決めつけ、「そういう人は向いていない」と断言するような言説については、心から抵抗する。)
(追記2:ちなみに私は、子どもを産んでないけれど、子どもは好きなので、結構Likeする方だと思う。ただし、本当に可愛いと思う子どもだけ。あたりまえだけど、自分の子どもではないので「あばたもえくぼ」にはならないし、それこそ芸能人を見るのと同じような判断で可愛い!とスルーをしている。)
これが誰か知らない人のメルマガかなにかであれば事は簡単である。
くだらない。つまらない。→ 購読停止(Unsubscribed)という手段をとればよい。
しかし、フェイスブックのFriendだとそうもいかない。
フェイスブックでは、自分は努力せずに、
「友達」という名前の拘束力によって、一定の読者を獲得しているのだ。
なんという恵まれたプラットフォームだろうか。
その読者は、否応なしに(「友達をやめる」か「購読をしない」を能動的に選択しない限り)、「友達」の書き込みを見ることになる。
☆
ちなみに写真でいえば、私も大量の恋人の写真を持っている。
友人が自分のこどもを可愛いと思うように、私も恋人のことを非常にかっこいいと思っている。
私はそれを去年一回、一つのアルバムにまとめてフェイスブックにアップした。
それだとフィードに流れるのは基本的には一回で、後はWallのアルゴリズムにもよるが、コメントが付いたり人気投稿にならない限り、普通に時系列で流れていき、万が一興味のある人だけが遡って中身を見ることができるからだ。
これを毎日フィードに流せばうざいだろう、ということは容易に想像できる。
他人の恋人や、二人のリア充度なんて、はっきりいってどうでもいいのだ。
私は非常にかっこいいと思っているが、人によっては「痩せすぎだ」とか「髪がながすぎだ」とか「鎖骨をやたらと見せすぎだ」とか、私が思うようには見てもらえないかもしれない。それも、あくまでもそれぞれにとって相対的に判断しているものなので、当然のことだ。
繰り返すが、それはらーめんも子供も一緒である。
他人にとっては、どうでもいいのだ。
らーめんでも、こどもでも、自分の記録のためだけでなく、見ている人をどのように意識するかで、
その書き方やアップの仕方も変わってくるのではないか。
自分が人に見せているものが、どれだけどうでもよいか、ということを自覚しているかどうか、
そして自覚に基づく投稿回数で、かつクオリティーコントロールである。
私がどうしてもうざいと感じてしまうのは、「友達」という名前の強制的な読者を獲得しているなかで、自分の自慰行為を相手に見せつけているように感じるからである。
フェイスブックはブログと違い、自分のページの中に見たくもない相手の自慰行為が、能動的な拒否をしない限り自動的に流れてきてしまう仕組みなのだ。
こんなに簡単に自慰行為を見てくれる人がたくさんいるなんて!
(本来ならばそれなりの努力を払ったり対価を払わなければいけないのに)という状態のなかで、
だから何してもいいんでしょ!何しても自分が好きでやっているんだから自由でしょ!
という開き直りとその横暴さは、ただただ非常にかっこわるいのだ。
☆
さらに、らーめんととこどもは、観ている人にとってはどうでもいい、という点で一緒であるが、
圧倒的に違う点が1つだけある。
強制圧力だ。
自分の子どものことは、親が一番可愛いと思っているに決まっている。
どんなに子どもが不細工でも、デブでも、親は自分のこどもが一番可愛いと思う。
それは当たり前の事実で、そして世にも美しい真実だ。
しかし他人がみて、そのこどもの親より可愛いと思う気持ちが薄いのも当たり前である。
らーめんの写真には様々なコメントを付けうる。
「私、背脂苦手。」「カロリー高そう。」「デブ街道まっしぐらだな」などネガティブなコメントもつけうる。
しかし、こどもの写真にはネガティブなコメントはつけえない。
共通認識として、人のこどもに対してネガティブに響くようなコメントをするのはまるでタブーのような風潮がある。そして、誰もそんなことしたくはない。
さらに言えば、友達のこどもの写真に他人ができるコメントなんて、おそらく指で数えられる程度のバリエーションしかないから、コメントの内容まで自由度が低いのだ。
こうして何故私が「うざいと感じるか」についての理由を考察してみたが、もちろんこれは私の一つの意見であって、だからやめろよ!というメッセージを発するつもりはさらさらない。
SNSは人びとが自由に使うもので、そこには社会的な使い方・捉え方のコンセンサスなどないからだ。
もちろん私のように感じる人だっているし、そうでないひともいる。
一方で、私には「友達」の投稿に対する不快感に声をあげ、それをここで表現する権利もある。
もちろん私には何かを変える力はなく、ただ自分が何を排除し、どれを包摂するかという選択をするというのが唯一の対応策だということはわかっている。それでも、自分の好きなように自分のタイムライン(Twitter)やWall(facebook)を操作できるなかで、そこで気にいらないからフォローを外す、Unfriendするという手段を取ることだけがベストな解決策だとはなかなか思えなかったのだ。それはやっぱり、今自分が視界から排除しようとしている人が、「友達」だからだ。
今回、私は自分の選択として、ツイッターと連動していてやたらと発言数の多い人と、年中同じような写真ばかり流している(私のWallでは主にこどもと食べ物)人を、Unsubscribeしました。
本当はみんなをそのまま受け入れたいし、ずーっと仲良くしたいと思っているんだけど。
(追記)2013年1月9日
コメント欄を拝見していると、facebookに並々ならぬ苛立ちを覚えている人が多いように見受けられます。
私はこんな風に書いてはいますが、友人の子どもの写真や食べ物の写真も楽しんで見ているケースも多く、結局、facebookのヘビーユーザーですし、楽しんで使っている側の人間です。
facebookへの苛立ちは、見る側の問題ではなく、あくまでもコンテンツを提供する側の問題だと思っています。
誰しも、自分のウォールにそれほどの仲良くない友達のたいして可愛くもない子どもの写真が毎日流れてくればうざい、と思ってしまう。これが1か月に一回だったら、こんな感情は産まれないでしょう。同様に、たとえ年中子どもの写真が流れて来ても、その写真のクオリティが高く、創意工夫に溢れていればコンテンツとして楽しんでみられると思います。
どれだけ人を楽しませるコンテンツかどうかというのは、その人のメディアリテラシーとクオリティコントロールの賜物ですが、結局はその人自身が魅力的かどうかということだと思います。
つまり、facebookがつまらないのは、自分や友達がfacebookを使いこなせていないか、もしくは、つまらない投稿ばかりする友達しかいないという自分の責任。というのが私の持論です。
そのせい(おかげ)でたくさんの人に読んで頂いているようなので、コメントを含めて、少し加筆・修正しました。
(2012年9月18日追記&修正)
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このブログを書く前に、フェイスブックのWallにつまらない(と私が感じる)書き込みが多いことの不自由さについて、Twitterに書き込みをいました。以下がその全文(3回に分けて投稿)。
「私はfacebookとツイッターではどちらも同じくらいの人(800人)をfriends設定&フォローしているが、ツイッターは自分の好きな人だけをフォロー、Facebookは友達から申請くれば拒否ることはないので、断然ツイッターのほうが納得いくTLになっている。
FBのWallには、疲れる。なぜならフェイスブックのWallで見るものは、自分の嗜好を反映していないからだ。
もちろん全員、「友達」だけれど、友達には色々な種類の「友達」がいる。
特に最近、日本の友達がFacebookに大勢(おそらくmixiから)移行してきて、一日何度も自分のこどもの写真やラーメンの写真をUPしている。私の800人のFriendのうちおよそ600人近くは「日本人」以外の友人なのだけど、外国籍の友人たちはニュースや、面白い情報や、人生で起こった大事な瞬間の共有を、ある程度「昇華」させた形でアップしている人が多いけれど、私の体感では、なぜか日本国籍の友達は個人の日常の、他人にとってはどうでもいいことを気軽にアップする人が多い。
フェイスブックで見たくない人はUnsubscribe(購読停止)するか、Only important eventだけの購読にすればいいとは分かっている。数が多くて面倒くさかったけど、とりあえずツイッターと連動しててどうでもいい書き込みが多い人と、こどもや食べ物の写真ばかり連投する人をUnsubscribeしました。」
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ツイッターとFacebookが圧倒的に違うのは、
購読したいものを選択するときの自由さが、ツイッターの方が断然勝っているということ。
Follow/unfollowとFriend/Unfriendでは、つながり方も、精神的負担も、だいぶ違う。
Facebookでは、「友達」だと Friendにならざるを得ない
→ 彼・彼女が書くものは(恣意的操作をしない限り)自動的にWallに出現し、強制的に見させられる。
見るものに対してつまらないと感じた場合、もっとも安易な解決方法としては、「友達」をやめる(Unfriendする)か、「購読しない(Unsubscribe)」(「友達」は外さないけれど、Wallには表示されないようにする)という選択肢をとるのが一番現実的であり、「そうすればいいじゃん」と言う人もいるかもしれないが、このような問題は私だけではなく、多くの人がSNSに抱く「人間関係の面倒くささ」にも共通するもののような気がする。
「読みたくないものはたとえ友達の投稿でも視界に入らないようにする」というのが最適な方法であると言い切ってしまう前に、何故このような問題が起こるのか、何故このような投稿が不快感を与えるのか?について考えてみたい。
☆
残念ながら、自分が入れ込んでいるものは、他人にとってはどうでもいいことがほとんどである。
よくツイッターやフェイスブックでつまらないと批判を受けると、
「私(俺)は、自分の記録のためにやっている」という人がいる。
私は、この意味が全く分らない。
自分自身の記録や考えの整理のため「だけ」にやっているのなら、Public(公開)にせず、
日記でも書くか、Mac Book上にアルバムでもつくってそこに写真を溜めていけばいいのだ。
それでもあえて公開するということは、どこかで人に見てほしい、反応がほしい、という欲求があるのだろう。
自分が大事に思っているものを、見ている人にも分ってほしい、好きになってほしい、ポジティブな反応がほしい、と思っている。
そこまで積極的な願望じゃなかったとしても、Like(いいね!)されたら嬉しい、「可愛い」、「美味しそう」って言ってもらえたら・・・というのをどこかで期待してるのではないか。そうでなかったらパブリックにする必要がないのだ。
それはらーめんでもこどもでも一緒である。
言っておくが、私はらーめんもこどもも、別に嫌いではない。
友達がアップしているらーめんをみて、食べたい!とおもって調べたこともあるし、
友達がアップしたこどもの写真にLikeをつけて、可愛い!、いい表情だなあ、みたいなコメントをしたこともある。
ただし、実際にそう思いうる投稿に対してのみ、そうしている。
だから、心情的にそのテーマは見たくない、嫌い、という感情とは違う。
(追記1:コメントの中にも、「こどもに反応するひとは、それに対してなんかあるんじゃない?」との意見もあった。「なんかあるひと」の存在については否定しない。人それぞれ、心に持つものはあるからだ。しかし、何かに関する人の意見に対して、「そう思うのはお前になんか(ネガティブな感情や劣等感やなんか)があるからだ」と一方にその発言者の心情を決めつけ、「そういう人は向いていない」と断言するような言説については、心から抵抗する。)
(追記2:ちなみに私は、子どもを産んでないけれど、子どもは好きなので、結構Likeする方だと思う。ただし、本当に可愛いと思う子どもだけ。あたりまえだけど、自分の子どもではないので「あばたもえくぼ」にはならないし、それこそ芸能人を見るのと同じような判断で可愛い!とスルーをしている。)
これが誰か知らない人のメルマガかなにかであれば事は簡単である。
くだらない。つまらない。→ 購読停止(Unsubscribed)という手段をとればよい。
しかし、フェイスブックのFriendだとそうもいかない。
フェイスブックでは、自分は努力せずに、
「友達」という名前の拘束力によって、一定の読者を獲得しているのだ。
なんという恵まれたプラットフォームだろうか。
その読者は、否応なしに(「友達をやめる」か「購読をしない」を能動的に選択しない限り)、「友達」の書き込みを見ることになる。
☆
ちなみに写真でいえば、私も大量の恋人の写真を持っている。
友人が自分のこどもを可愛いと思うように、私も恋人のことを非常にかっこいいと思っている。
私はそれを去年一回、一つのアルバムにまとめてフェイスブックにアップした。
それだとフィードに流れるのは基本的には一回で、後はWallのアルゴリズムにもよるが、コメントが付いたり人気投稿にならない限り、普通に時系列で流れていき、万が一興味のある人だけが遡って中身を見ることができるからだ。
これを毎日フィードに流せばうざいだろう、ということは容易に想像できる。
他人の恋人や、二人のリア充度なんて、はっきりいってどうでもいいのだ。
私は非常にかっこいいと思っているが、人によっては「痩せすぎだ」とか「髪がながすぎだ」とか「鎖骨をやたらと見せすぎだ」とか、私が思うようには見てもらえないかもしれない。それも、あくまでもそれぞれにとって相対的に判断しているものなので、当然のことだ。
繰り返すが、それはらーめんも子供も一緒である。
他人にとっては、どうでもいいのだ。
らーめんでも、こどもでも、自分の記録のためだけでなく、見ている人をどのように意識するかで、
その書き方やアップの仕方も変わってくるのではないか。
自分が人に見せているものが、どれだけどうでもよいか、ということを自覚しているかどうか、
そして自覚に基づく投稿回数で、かつクオリティーコントロールである。
私がどうしてもうざいと感じてしまうのは、「友達」という名前の強制的な読者を獲得しているなかで、自分の自慰行為を相手に見せつけているように感じるからである。
フェイスブックはブログと違い、自分のページの中に見たくもない相手の自慰行為が、能動的な拒否をしない限り自動的に流れてきてしまう仕組みなのだ。
こんなに簡単に自慰行為を見てくれる人がたくさんいるなんて!
(本来ならばそれなりの努力を払ったり対価を払わなければいけないのに)という状態のなかで、
だから何してもいいんでしょ!何しても自分が好きでやっているんだから自由でしょ!
という開き直りとその横暴さは、ただただ非常にかっこわるいのだ。
☆
さらに、らーめんととこどもは、観ている人にとってはどうでもいい、という点で一緒であるが、
圧倒的に違う点が1つだけある。
強制圧力だ。
自分の子どものことは、親が一番可愛いと思っているに決まっている。
どんなに子どもが不細工でも、デブでも、親は自分のこどもが一番可愛いと思う。
それは当たり前の事実で、そして世にも美しい真実だ。
しかし他人がみて、そのこどもの親より可愛いと思う気持ちが薄いのも当たり前である。
らーめんの写真には様々なコメントを付けうる。
「私、背脂苦手。」「カロリー高そう。」「デブ街道まっしぐらだな」などネガティブなコメントもつけうる。
しかし、こどもの写真にはネガティブなコメントはつけえない。
共通認識として、人のこどもに対してネガティブに響くようなコメントをするのはまるでタブーのような風潮がある。そして、誰もそんなことしたくはない。
さらに言えば、友達のこどもの写真に他人ができるコメントなんて、おそらく指で数えられる程度のバリエーションしかないから、コメントの内容まで自由度が低いのだ。
こうして何故私が「うざいと感じるか」についての理由を考察してみたが、もちろんこれは私の一つの意見であって、だからやめろよ!というメッセージを発するつもりはさらさらない。
SNSは人びとが自由に使うもので、そこには社会的な使い方・捉え方のコンセンサスなどないからだ。
もちろん私のように感じる人だっているし、そうでないひともいる。
一方で、私には「友達」の投稿に対する不快感に声をあげ、それをここで表現する権利もある。
もちろん私には何かを変える力はなく、ただ自分が何を排除し、どれを包摂するかという選択をするというのが唯一の対応策だということはわかっている。それでも、自分の好きなように自分のタイムライン(Twitter)やWall(facebook)を操作できるなかで、そこで気にいらないからフォローを外す、Unfriendするという手段を取ることだけがベストな解決策だとはなかなか思えなかったのだ。それはやっぱり、今自分が視界から排除しようとしている人が、「友達」だからだ。
今回、私は自分の選択として、ツイッターと連動していてやたらと発言数の多い人と、年中同じような写真ばかり流している(私のWallでは主にこどもと食べ物)人を、Unsubscribeしました。
本当はみんなをそのまま受け入れたいし、ずーっと仲良くしたいと思っているんだけど。
(追記)2013年1月9日
コメント欄を拝見していると、facebookに並々ならぬ苛立ちを覚えている人が多いように見受けられます。
私はこんな風に書いてはいますが、友人の子どもの写真や食べ物の写真も楽しんで見ているケースも多く、結局、facebookのヘビーユーザーですし、楽しんで使っている側の人間です。
facebookへの苛立ちは、見る側の問題ではなく、あくまでもコンテンツを提供する側の問題だと思っています。
誰しも、自分のウォールにそれほどの仲良くない友達のたいして可愛くもない子どもの写真が毎日流れてくればうざい、と思ってしまう。これが1か月に一回だったら、こんな感情は産まれないでしょう。同様に、たとえ年中子どもの写真が流れて来ても、その写真のクオリティが高く、創意工夫に溢れていればコンテンツとして楽しんでみられると思います。
どれだけ人を楽しませるコンテンツかどうかというのは、その人のメディアリテラシーとクオリティコントロールの賜物ですが、結局はその人自身が魅力的かどうかということだと思います。
つまり、facebookがつまらないのは、自分や友達がfacebookを使いこなせていないか、もしくは、つまらない投稿ばかりする友達しかいないという自分の責任。というのが私の持論です。