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心配の範囲(東北関東大震災によせて)
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自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食らはずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食くらはん。人肉を食くらうて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。

大正十二年九月一日の大震に際して 芥川龍之介


・・・

「心配の範囲」

東北で大震災が起こった時、私は研究調査で3週間のソウル出張を始めたばかりだった。
地震の日は日本にいる人に誰も電話がつながらず、その次の日からの週末はずっとホテルにこもってひたすらNHKとインターネットを往復し、寝るときもテレビをつけて警報が出るたびに慌てておきてネット情報を確認したりしていた。完全に非日常だった。


私が守りたいと思うのは、いったいどのくらいの範囲なんだろう。


ソウル滞在中、韓国人の仲のいい留学生の女友達からメールがあって、「日本の状況がよくないし、風が東京にふいて来ているし、流れてくる放射能がこわい。韓国に彼氏を連れて一緒に帰りたい。ついては彼氏は韓国で日本語教師をやれるか?」という質問がきた。原発事故から1日目くらいの時期だった。そのとき、大きな地震を初めて体感したという彼女が感じた怖さには同情すると同時に、彼氏を連れてくることに関しては、日本語教師はそんな「避難先」の腰掛・かた暇でできるような簡単で無責任な仕事じゃないし、彼氏を国外脱出させるのも時期尚早ではないかという話をした。彼女自身はすでに3日後くらいに日本を離れる飛行機のチケットを持っていて、でもその後の3日間がものすごく怖い。と言っていた。


私は「疎開」に対して、肯定的な部分と批判的な部分があって、それは以下の2つのパターンに分けられると思った。

1、外国からの留学生など(私の友達に一番多い。韓国の元生徒も含む)は地震自体が初体験の人も多く、ものすごい恐怖と今後の不安を抱えている。日本語がそれほど得意じゃない場合、日本国内での情報の収集や人とのつながりにもかなり不安を覚えていて、春休み中なので学校で友達に会うわけでもなく、一人で部屋にいてストレスでものが食べれなかった子もいた。そういう友達は、祖国に帰ることができれば本当に良い思う。子供がいて不安な人や妊婦さんも、ストレスをためないために疎開するのがいいと思う。(できるのならば)

2、かなり初期のころから、東京の中でも非常に動揺していた友達はいた。かなり誇張された海外の報道や、インターネット上のデマ(としか思えないようなかなり誇張された情報)を聞いて、「奇形児が生まれたら困る!」、といって、放射性物質についてはっきりと名言をしない政府や東電の対応に不信感を表し、周りの人に逃げるように薦めたり、不安をまき散らしていた。

原発の話題が始まったときから、疎開問題に対して感じていたのは、比較的安全な場所から、見えない不確定な不安について危ないと騒ぐよりも、まず今被害を受けて大変な状況にいる人の役に立つことを考えることが先決なのではないか、ということだった。
もっと大変な人も、東北にはたくさんいるのに、首都圏にいる人間がどうして自分に迫り来る見えない危険の可能性におびえているんだ、と。その時、逃げることばかりを考えていた人に対して、私はなんだか納得のいかない思いを抱えていたのだった。そしてその気持ちは、一体どこからでてくるんだろう?ということを考えていた。


私が思うに、頑固な両親と先の長くない(と本人たちの言う)祖父母は、放射性物質の危険を考えてよく知らない場所に疎開する、なんてことは考えられないと思う。もし本当に危なくなったらどうにか説得して連れていくが、私は彼らを連れて逃げることのできる先を、今のところ知らない。

海外に行くのはいい。不安があって、一定期間身を寄せる場所や故郷があるのなら、それはとても幸運なことだ。
でもほとんどの人は、長い間疎開できるような先がなかったり、彼らがいなくなってしまったら困る人がいるから今この場所のこの生活に留まらざるを得なかったりする。

この状況に対して、政府や東電の対応のミスを批判することは可能だし、今後再考すべき部分はたくさんあると思う。ただ今の状況で、批判だけをするのは自分勝手な気がしている。韓国ではNHKしかみれず、韓国のテレビも日本のニュースばかりやっている。NHKでは流れないような、ちょっと目をそむけたくなる映像もある。Facebookみてると、多くの人が日本のことを心配し祈っていくれている一方で、放射能が届くから東京に行かないほうがいい、とか拡散している人や、停電が真っ暗で怖くて死にそうとか書いている人もいる。家族や家がなくなってしまった人もいるのに、電気がつかないくらいなんだ!と言いたい。


たぶん「疎開」に関する人々の動向をみていて、自分が感じていた疎開することへの違和感は、それぞれの人がもつ「心配の範囲」が異なっているからだと思う。

今これから、何が起こっても、全員が逃げる訳にはいかないということ。
原発の周りで働く作業員の人がいて、放射性物質を浴びながらでも日本の経済を動かしていくであろう会社員の人たちがいて、私が無意識化で守りたいものは、もしかしたらそういう漠然とした、「この国を構成する人々」だったのかなあと思う。家族や友達を中心とした人間の輪を守りたいと思い、その延長線上に東北の人や原発の作業員の人がいて、実際にはそんなもの当然守ることなどできないのだけれど、気持ちだけでも守りたいと思っていたのだと思う。






「情報デバイド」


情報への接し方には三種類があると思う。
情報を選択できる人、情報にアクセスできない人、そして情報の制限に気づかない人。

地震があって一週間経つと、日本に帰りたい気持ちはマックスになった。
とりあえず一度帰って現状を把握したい思いと、とりあえず海辺に住んでいる海ばあちゃんと、久里浜の祖父母宅に行って、何かあったときにどうするつもりなのか、どうすればいいのかを、私の知識を総動員してブリーフィングしたかった。彼らは完全に情報にアクセスできないグループに属していて、携帯電話すらも持っていない。

情報の制限に気づかない人というのは、海外にでもたくさんいた。NHKだけ、日本語の報道だけ、もしくはCNNだけ、では分からない事実というのはたくさんある。情報は多ければ多いほどいいというものではないが、自分が手に入る情報がいかに限られたものであるか、ということを自覚することが必要なんだと思う。



そして重ねて、今回の地震で感じたのは、情報デバイドだ。ツイッターひとつをとっても、それを使えるか使えないかよって、だいぶその人自身が得ることができる情報の量が変わってくるのだ。私の両親も祖父母も、誰一人インタネットをしないので、携帯や家の電話がつながらないと完全に連絡手段を絶たれる。

今、情報における格差の問題は、2方向に広がっていっているのを感じている。
ひとつは垂直的な情報デバイドで、もう一つは水平上の情報デバイド。


「垂直的な情報デバイド」とは、この日本という国の中で、日々流れる多くの情報にアクセスできる人とできない人がいる、という縦方向の情報デバイド。このデバイドは、住んでいる地域、環境、仕事などももちろん関係するが、一番大きく影響を与えているのは世代の違いであると思う。

私は地震発生時からついこの間までソウルにいて、地震発生時からその日の夜中過ぎまで、インターネットを全く使用しない自分の家族や祖父母に連絡がとれなかった。友達は皆ツイッターやフェイスブックで連絡が取れているのに、自分の家族や祖父母の安否が確認できない。自分が彼らのそばにいないときに、電話というたった一つの通信手段に頼るしかないということの危うさを実感した。同じように、家の電話しか連絡手段を持っていないという高齢の方が、被災地にも全国にもたくさんいるだろう。そして彼らにこれから新しくスマートフォンを普及させたり、ツイッターを使いこなすなどのスキルを求めるのは非常に非現実的なことだ。

このようにすでに存在する縦の情報デバイドを自覚し、私を含めて情報へのアクセスに負担を感じない世代やクラスタの人間が、積極的にこの問題に向き合い、フォローアップの手段を考える必要があると感じている。


もう一つの「水平上の情報デバイド」とは、今回の震災の当事国である日本と、世界各国における報道の違いが生み出した情報デバイドだ。

日本に留学している学生に聞いても、それぞれの出身国のテレビや情報を得て話しているため、どの言語で情報を得ているかによって、今回の震災と原発事故に関する危機意識が異なるように見受けられた。同時に政府や東電のあり方に対する批判や、日本の国民の対応に対する賞賛なども、それぞれのメディアで報道されていることに多くの影響を受けている。

私が韓国や中国やアメリカのテレビを通じて得られる情報と、海外出張中に唯一、テレビでみることのできたNHKが流していた報道は、内容も呼びかけもテンションも異なる部分が多く見られた。海外の報道(特に私の見る限り、韓国と中国大陸の報道)はかなり過剰に演出し、危機感をあおるものが多かったのは確かだけれど、一方で日本のNHKでは見ることのできないような、現状をまざまざと見せつけるような衝撃的な映像や、被災地でのインタビュー、原発に関する海外知識人の意見などを知ることができ、震災に対して新しい視点を得ることができたのも事実なのだ。

「情報格差」というと、どちらかが十分でどちらかが不足している、という上下の印象を受けがちだ。
でも、情報があればあるほどいいというわけではないし、一方でどの国やどのメディアの報道が完全に正しいという問題ではない。だからこれは「格差」ではなくて、この場合は「デバイド=二つの異なったものの隔たり」があるのだと思う。

これら2つの情報デバイドが起きている中で、今後私たちが積極的に取り組むべきなのは、この二つの間の隔たりをつなげるための努力ではないかと思う。そのためには、メディアリテラシーをふくめ、公教育の場以外で行うことのできるIT教育、世界に視点を持ち多言語を運用できる次世代の育成が課題になってくると考えている。







90年ほど前、関東で大きな地震が起こった際に(関東大震災)芥川龍之介が書いた日記を全集から。

人を救うのは、いつだって生活の過剰であると思う。
第二次復興の際には、その過剰がたくさん生み出されるような環境を継続してサポートするのが、被害に遭わなかった私たちにできることなのかな、と思う。私の心配の範囲に入った、想像上の共同体に属する人たちを。

・・・


僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研やげんなりに石垣の崩れた処がある。崩れた土は丹にのやうに赤い。崩れぬ土手は青芝の上に不相変らず松をうねらせてゐる。其処にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日けふもそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。

僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐なつかしのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉とらへてゐた否定の精神を打ち破つたのである。

芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧にその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。

僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだつた。


大正十二年九月一日の大震に際して 芥川龍之介

*・゜゚・* saereal *・゜゚・* (English)



| | 13:13 | comments(2) | - |
コメント

twitterでも意見、考え方を拝見させて頂いてます。


『2つの間の隔たりをつなげる努力をする』


との意見に対してなのですが、一つ一つの情報デバイドを改善することこそが今努力すべきことなのではないでしょうか。
それに2つの間の隔たりをつなげるとの書き方に少し違和感をおぼえたのですが。
| carbonic0acid | 2011/03/31 12:37 AM |

carbonic0acidさま


どうも。日々お目汚ししてます。

たぶんと根本的な問題意識はそれほど違うとは思わないのですが、違うとしたら、私はその情報へのアクセス量の違いはある程度仕方がないと思っていることかな、と思います。

当然、最新機器やツールを使って情報を手に入れる気があるのに、インフラがないなどの場合は社会的対策を立てる必要がありますが、インターネットやスマートフォンなどに興味を示さない層も決して少なくないと思っています。

そしてそれを、情報に多く接している側が、こんなに差があるから相手にもアクセスをしてもらうように働きかけないと!とか、少ない人を多い人に近づける、ということが改善=良い方向に変えること、というスタンスにはあまり同感できません。

なので「つなげる」の意図は、どっちかをどっちかに引き寄せるという意味ではなくて、情報を多く持っていたり、それをマネージメントできる側が、情報を持っていない人が不利にならないように、つなぎのシステムを作るのが大事なのかなと思っています。

そのためには、そのつなぎのシステムは、人間そのものなのかなと思っています。今災害関連で、そのつなぎのシステムみたいなのを作るのに一枚噛んでいて、情報と情報をつなぐのは人間なんだなあというのを実感しているところです。



| saereal | 2011/04/01 1:39 AM |
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