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<< トンケの蒼い空 | main | キックアスと今年の心構え、など >>
ものをあげるということについて(伊達直人騒動に関連して)
「タイガーマスク」の伊達直人名義で、ランドセルや筆箱、現金を寄付する人のことがニュースになっていた。
私が自分の経験から持った自戒を踏まえて、誰かにものをあげるということについて。


それはパキスタンにいたときだった。
当時、2005年のパキスタンーインド国境地震の影響もあって、思っていたよりもパキスタンの旅が長引き、私はペシャワールとそこにある市場や雑然とした街をいたく気に入って、それほど観光するところのないペシャワールに1週間くらい滞在していた。ちょっとしたきっかけで、アフガニスタンとの国境に近く、アフガンからの移民も多く住んでいるペシャワールからさらに1時間ほど郊外にいったところにある、アフガニスタンの難民キャンプに行くことになった。


その話を聞いた時、一緒のホテルに滞在していた年上の旅で会った男の人が、
どうせ行くのなら何かプレゼントを持っていきたい、と言った。
当時、バックパッカーだった私やその旅で出会う人たちは、どんなに貧乏旅行をしても日本とパキスタンの貨幣価値の差のおかげで、自分たちにとってはそれほど痛くない金額が、パキスタンでどれほどの価値を持っているかを知っていた。だから、彼はこういう計算をした。ここではノート一冊がこんなに安い。100冊買っても、日本円で500円くらいだ。バックパッカーの私たちにしてみれば、500円は3食食べれるお金だけれど、それでもたいした金額じゃない。それで100人の子どもに喜んでもらえるんだとしたら、なんて素晴らしいことなんだ、と。


その時感じた違和感を、その瞬間の私はうまく消化できなかった。
それはきっと「自分の懐はそれほど痛まない。でも相手は喜ばすことができる。」という環境の特権に易々と乗っかることにひかかっていたんだと、今なら説明できる。
しかしその時の私は、なんだか妙な違和感を持ちながらも、完全にそれに乗っかった。
ここで「私はいいや、一人でやって」というのはあまりに自分がケチな気がしたからだ。
二人で200冊くらい、ありったけのノートとペンを文房具屋さんで買い占めて、キャンプに行った。


キャンプの人は、とても快く、丁寧に対応してくれた。
でも到着時は、意気揚々と(おそらく)して重いノートをこれだけ運んで来たんだ!という疲労感と妙な達成感が溢れていたであろう私たちに対して、事務所の女の人が私たちの運んで来たものを見た瞬間に見せた戸惑いと、あきらめのような表情に気づいてしまった。そして急速に、熱が冷めていくのを感じた。とても嬉しそうに、これ、これだけあるんです、と説明をして、喜んでもらえますよね!というオーラを出していた隣の旅友達と自分が恥ずかしくなって、やっぱ間違っていたかもしれない、と言って牽制したのを覚えている。

そのあと、お茶をごちそうになって、キャンプの説明をしてくれながら、私たちに失礼にならないように、すごく丁寧に、キャンプの人数が多いから、こういった物資での寄付は、貰ってもなかなかうまい形で配布ができない、ということを教えてくれた。キャンプ内で争いが起きないように、均等にものが行き渡るように、そういうことを考えたら、全員分のノートとペンが必要だった。私たちは、キャンプには何千人もの人がいることはしっていて、全員分は持っていけなくても、そのうちの何百人かでもあげることができて、喜んでもらえたらと思っていたけれど、現実はそんなに簡単なものじゃないのだ。そこに住み込んで働いている人たちが直面している世界は、ノート一冊がとても貴重だからこそ、そんなに易々とあげたりなどできないのだった。

今落ち着いて考えてみれば当然のことだったかもしれない。でも当時は分からなかった。私たちの行動のもとにあったのは、「自分にできる範囲で相手に何かをあげて、喜んでもらえたらいいじゃないか」という至極単純で、ものすごく善意であるつもりの、希望だったのだ。でもそれは、おじいちゃんにお年玉を1000円だけあげるのと全然違う。

以前、ハイチで災害があった時、ツイッターで呼びかけて、折り鶴をおって千羽鶴を送った人のことを知ったとき、私はかつての自分のことを思い出しながら、だからこそ数倍腹がたった。


あげるのは、相手のためを思うんじゃなくて、自分があげたいのだ。
そしてそのことを、もっと自覚するべきだ。
あげたいっていう自分の欲求を満たすためにあげるのだ。
それにはたちの悪いことに、相手が喜んでほしい(喜ぶべきだ)という期待までついてくる。
あげるのは、自分があげるもの(恩恵や特権)をもっているからだ。あげるということはなくてもそれほど自分が困らないからだ。そして自分がもっているものを分け合いたいという気持ちは確かに善意だから、その人の善意・好意は否定されるべきじゃない、と皆おもっている。


でも。


ものをあげるより、問題と向き合い続けることがどれほど難しいか。
向き合い続けるのは、皆ができることじゃない。
だったら、向き合う人を、彼らが自由に使える形で支援すること。(つまりどんなものにも替えられるお金。)
もしくは何かをあげるとき、それが本当に相手の役に立つかを、思い込みや価値観の押しつけじゃなくて真剣に考えること。
ものをあげたい自分の気持ちを、単なる善意だと思い込まないこと。
単純な善意が暴力に変わることがあるってことを、ちゃんと自覚すること。

あげたいのは、善意じゃないよ。あげることで、自分自身が満足するんだ。
相手の喜びや幸せまで期待するなんて、とてもおこがましいことだ。
結果として喜んでもらえたり、結果として誰かの役にたったのなら、いいことをしたんじゃなくて、それはものすごく、あげた自分自身が嬉しくなることだ。


後日談。去年、新宿連絡会にうちにあったほぼ新品の寝袋を二個、持っていった。
ものすごくどきどきして、同時にまたものすごく自分が偉そうな人間になってしまった気がした。
連絡会の人は、本当に喜んでくれて、これから寒くなるから助かりますよ、と言ってくれた。一回使ってしまったけれど、ちゃんとふいて干したので結構綺麗だと思うんですけど・・・とかもごもご言っていたら、そんなの全然かまいませんよ、どんなものでも、といってくれた。それを聞いてまた、自分が何様なんだろうという気になってしまった。

でも受け取ってくれてとても嬉しかった。私自身がとてもハッピーだった。もしいまあの寝袋で誰か寝ていてくれてるとして、もしそのおかげで暖かかったら、私はとても幸せだ。おこがましいけど。ホームレスの問題に、ずっと継続して向き合うことができていないから、そうやって罪の意識から逃れている。




【追記】
ツイッターやヤフーからたくさんの方に来ていただいて、読んでいただいてありがとうございました。
アクセスが集中してブログが開けない時間があったようで、すみません。
ツイッターでもたくさんのコメントを頂き、勉強になりました。

ひとつ追記しておきたいのは、真剣に誰かを助けたり、なにかを与えたいと考える一個人(ここでは伊達さん)を攻撃したり批判しているつもりは毛頭ないということ。(ちゃんと読んでくださっている方には分かると思いますが)この事件をきっかけにして、その気持ちの表現の仕方と、社会での受容に対して違和感があり、誰かになにかをあげること・寄付すること総体に対する自分の意見を述べたいと思って書きました。もう一つ、コメントの中でよく使われていた「偽善」という言葉にすこしひっかりました。私はここで誰かに何かをしたいと思う気持ちを、「偽善」という言葉で表現はしていないし、するつもりもありません。

人の役に立ちたいとか、誰かを喜ばせたいとか、何かを与えたいと思っているNGOや援助現場の人の中に人は、そうしている自分や自分の環境に悩んだり、与える立場にいる自分に疑心を持ちながら、それでも向き合っていっている人がたくさんいる。その中で、何かを寄付したりあげることを簡単に正当化し美談にすることには、今でも違和感を覚えています。


もう一つ付け加えるとすれば、私が以前短期間ですが関わっていた山谷にあるカトリック系の慈善団体でも、東南アジアの山岳地帯のこどもたちを支援するNGOでも、ウェブサイトでどれほど詳細に何を求めているかを書いていても「寄付」という名目でたくさんの不必要なものを送りつけてくる人は少なくなかったし、そういった明らかに家庭内の不要品と見えるようなものを「これでももし誰かの役にたてれば・・・」と考えることの傲慢さを感じていました。寄付行動は喜んでもらうという実感を得ると嬉しいので癖になりやすく、同じ人から定期的に送られてきたり、事務所の前に置かれていることも多く、連絡先がないので、こちらから連絡してお断りすることもできない、との話を一度となく聞きました。


何もしないより行動したほうがいい、という考えも多く聞いたし、それも真実だと思います。
中には、今回のことで、とにかく寄付という概念が広まって、行動する人が増えるんだからいいじゃん!とコメントを書いていた人も多かった。それも確かに一理あると思います。
でも寄付活動は、ただものをあげる行為が広まることに意味があるのではなく、既に次の段階にいっているし、行くべきだと感じます。

最後に、今回の孤児院にランドセルを寄付する、という出来事に関して、自分の意見を述べるとすれば、「自分がこどもだったら、よく知らない人から寄付でもらったランドセルを6年間使いたいだろうか。」っていうことを考えてもいいと思いました。子どもは、大人が思っている以上に色々考えているし、物質よりも、自分の気持ちやこだわりやプライドが大事なこともあるから。

今回のことは、誰かに何かをあげるということはなにかということを再考するいいきっかけになったし、自分だったらどうするだろう、今自分が何をしているだろうということも、何をしたいのかということも、整理して考えることができました。そういう意味で感謝しています。

(追記1月12日午後11時)



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| | 03:42 | comments(23) | trackbacks(2) |
コメント
正直、私も似たように考えています。
贈り物って、やっぱり送る側が嬉しいことが多いと。
少なくとも私の体験の中には、下心とまでは言わないまでも「送って嬉しい」と思った贈り物しかないのは確かです。
相手のことを考えた、「善意」を持った贈り物を贈ったことなど、本当に数えるほどしかありません。

でもそう考えているのも、その対義としてビジネス的な贈り物があるからだとも思っています。
・・・気持ちすらない贈り物。
何か味気なく感じてしまいます。

結局、本当に相手の身になって考えなければ贈り物は贈れないような気がすると薄々感じつつも、何も考えないようにしている自分がいます。あと一ヶ月でバレンタインだと騒いでいる同級生の中で(笑)そんなことを考えている高校生も珍しいよなぁ・・・。
| wat | 2011/01/12 4:46 PM |
はじめまして。
偶然立ち寄ったこの記事に大変共感いたしました。コチラはmixiですが、引用させていただきました。事後報告ですみません。
| ミカヅキ | 2011/01/12 5:43 PM |
非常に共感しました。
“誰か”の喜びを大義名分に、
“自分”が気持ち良くなってること。
似たような経験が自分にもあります。

自分はこの騒動を(今のところ)好意的に見ていますが、
どこかに感じていた違和感の正体に気付かされた気がします。
もっと“奥の方”にある問題を知るきっかけにならなければ、
マスコミの格好のネタになるだけという危惧もあります。

このブログがYahoo!のトップニュースにリンクされただけでも、
多くの人が“奥の方”を知るきっかけになったと思います。
そのことに感謝します。ありがとうございました。
| まえその | 2011/01/12 7:46 PM |
眠たいこというなよ。お前みたいな、わけのわからん人間がいるから物事が前に進まない。
| dare | 2011/01/12 8:31 PM |
「おみやげ」って何買ったらいいか迷いますよね?

食べ物系がいいのか、キーホルダーやストラップがいいのか・・・

相手の人に嫌いなものはないか、キーホルダーはごみにならないか、

はたまたおみやげなんて欲しくないんではないか・・・

いろいろ考えて買い物しますが結局は

「自分がされて嬉しいことをする」

につきると思います。相手のことをいくら考えても答えはでません。

おみやげをもらって嬉しいか、悲しいか・・・

自分はおみやげをもらって嬉しいことのほうが多いのでおみやげを買って帰ります。

ただ、キーホルダーは自分がもらっても最後は捨ててしまうので、人にも買っ
て行きません。
| おみやげ | 2011/01/12 9:06 PM |
はじめまして。
Yahoo!のリンクから来た者です。

文章に感動しました。
「ものをあげるより、問題と向き合い続けることがどれほど難しいか。」座右の銘にしたいほどです。

葛藤がある中で寝袋を寄付された際のお話ですが、とてもハッピーだったとのこと、私は、人間はそれでもいいとは思うんです。
真剣に考えた末に、喜んでもらえることができたわけですから。
一番良くないのは、問題と向き合うこともせず、こういった行為を「偽善だよ」で片付けてしまうことだと思います。
そうしたことを言う人たちは、その寝袋も、真剣に問題と向き合う人すらも、偽善だよ、偽善者だよと片付けてしまい、自分は何一つなさないのです。
| oiroku | 2011/01/12 10:43 PM |
初めまして。
寝袋のくだりについて思う事を書かせて下さい。


「偽善か否か」という自問自答には、時としてそれ自体が偽善の場合が多々あると思います。
今夜凍死するかどうかという人は、寝袋が新品かどうかを気にするでしょうか。
もちろん個々の感受性の問題として、もらう側の感情にも色々な差異はあると思います。「施し」を受けるよりは凍えるほうがいいという人もいるのかもしれません。

でも、何かを切実に必要とする人がいて(しかもそれが今この時の死活問題で)、自分がそれを何の苦も無く提供できるとしたら、それが偽善かどうかを問う事自体が、結局はいくらでも新品を買うことのできる人間の自己満足のようにも思います。
もしも自分もまたホームレスだったとしたら、不要な品を譲りあうことをおこがましいとはきっと感じないでしょうから。

日頃ブログを拝見していますが、たまたま今回の内容に関心があったためコメントさせて頂きました。
記事の主旨に合わないとしたら、失礼しました。

| hanako | 2011/01/12 10:46 PM |
はじめまして。通りすがりでこちらへ来ました。
記事の内容、じっくり拝見させていただきました。

人間も所詮は動物です。本当に深刻な状態下に置かれれば、やはり自分が最優先になります。

前に読んだ本に書いてありましたが、人が同じことを繰り返すのには「ドパミン(ドーパミン)」が関連します。
ドパミンが出れば、脳は「快感」を覚えます。しかし、ドパミンの効果は短いので脳はまたドパミンを求めます。そのための行動の具体例が、各人の趣味を楽しむことです。悪いものでは薬物使用になります。
誰かに物をあげるということも実は同じです。相手を喜ばせたりすることでドパミンを得るのです。

筆者さんはとても聡明な方だなと私は思います。ここまで深く掘り下げて考えられる方はそんなにはいません。ですが、私にアドバイスさせてください。

誰かに物をあげた時の自身の喜びを「罪」と考えないでください。人間である以上はそうなるようになっているのですから。
あとは、社会の賞賛についてもそれなりに認めてあげてください。自身の身を削ることが出来るのにしない人もたくさんいます。今回の運動もまだ寄付行為についての知識が不十分だった人がほとんどだと思われます。限りなくゼロに近かったところからの進歩です。深い話はこれからのテーマです。

長文失礼いたしました。

P.S.:もしよろしければ私のブログにこの記事を転載させていただけないでしょうか?他の方にも読んでいただきたいので。
| Phi | 2011/01/12 11:14 PM |
健全な感覚だと思います。僕も以前、路上生活者の支援を手伝っていた時、似たような感覚を持ち、悩んだ時期もありました。
| leekeiji | 2011/01/12 11:16 PM |
初めまして、興味深く読ませて頂きました。

この騒動の一番重要な部分は“児童養護施設の子供たちが喜んだか”につきると思います。

もし彼らが喜ばなかったのなら、saerealさんのこの記事は渦中の騒動に一石を投じるすばらしいものであるし、もし彼らが喜んだのならこの記事はただの杞憂しすぎたゴミであるとも言えます。

枝葉に気をとられすぎて、肝心の幹が見えない時もありますよね。すべてはその大事な幹である子供たちが喜んだかどうかに帰結するんじゃないか、と思います。

横からのコメントですみません。
誰か当の子供たちに「ぶっちゃけどうよ?」て聞けたらいいんですけどね.......(笑
| oooo | 2011/01/12 11:24 PM |
皆様コメントありがとうございます。

ひとつだけ。
>hanako さん
いつもありがとうございます。
ご指摘の件、まさにおっしゃる通りだと思いました。

「偽善かどうかを問う事自体が、結局はいくらでも新品を買うことのできる人間の自己満足のようにも思います。もしも自分もまたホームレスだったとしたら、不要な品を譲りあうことをおこがましいとはきっと感じないでしょうから。」

という点です。
自分が納得できるこたえがでないので、ちょっと考えてみます。
ともあれ、コメントありがとうございます。
| saereal | 2011/01/12 11:41 PM |
Phi さま

コメントありがとうございました。
アドバイスをいただいたので、返答させてください。

>誰かに物をあげた時の自身の喜びを「罪」と考えないでください。人間である以上はそうなるようになっているのですから。
あとは、社会の賞賛についてもそれなりに認めてあげてください。

私は何かをあげて嬉しくなったときの人間の気持ちを、「罪」だとは思っていません。(自分に関して言えば、これでいいのかなあという迷いや妙な罪悪感が消えないであろうことは確かですが)また社会の賞讃に関しても、実際施設で本当に喜んでもらっていることもたくさんあると思うので、その点はきちんと賞讃されるべきだと思います。

ブログのリンクありがとうございます。
情報がまとめられていたので、興味深く拝見しました。
またブログへの転載の件、了解しました。


ooooさま

>この騒動の一番重要な部分は“児童養護施設の子供たちが喜んだか”につきると思います。

という点ですが、この点について、私個人的にはあまり賛同しません。
こどもが喜んだかどうかはもちろん重要ですが、それにつきることはないと思います。
(私がもしその子どもであれば、知らない報道の人や施設の大人たちに聞かれたら少なくとも喜んだふりをします。)


そして、
>もし彼らが喜ばなかったのなら、saerealさんのこの記事は渦中の騒動に一石を投じるすばらしいものであるし、もし彼らが喜んだのならこの記事はただの杞憂しすぎたゴミであるとも言えます。

この点について。
結果的にたくさんの人に読んでいただくことになり、コメントもたくさんいただいて嬉しいのですが、ランドセルを受け取った子どもたち喜んだからといって、私の書いたものが杞憂しすぎた「ゴミ」になるとは思いません。

このブログで自分の考えていることの整理と、自分の主張を提示することで、誰かが何かを考えるときの踏み台になればいいなと考えています。



皆様へ

コメントは承認制にしていますが、
誹謗中傷を含め、この記事に関するものはすぐに公開扱いにしています。
(承認制にしているのは、18禁サイトの宣伝などいたずらが多いためです)
コメントに気づかず、公開に時間のかかることがあることもありますが、ご了承ください。
| saereal | 2011/01/13 12:10 AM |
全然性質が異なる。
「喜んでもらえますよね!というオーラ」出しようがない。
匿名で、誰もいない時に置いていくのだから。
自己満足したかったとしても、反応を直接感じる事をできない。
仮に、マスコミの反応で、自己満足を得たい輩だとしても、施設側が迷惑だと思ったら公表しなければよい。
公表するからには、少なくとも有益であったという意思表示、つまり、たとえ偽善者だとしても伊達直人と施設の人の利害は一致している。
難民キャンプの場合は、たとえありがた迷惑だとしてもスタッフは、持ってきた人に対応するしかない。
その時点で利害は不一致である。
「問題と向き合う事が難しい」←
当たり前でしょ、その重圧に耐えられないから、匿名なんでしょ。
負荷を軽くし、尚且つ自己満足し、相手からも理解される方法を初代伊達直人が見つけ出した。
それにみんな便乗しているだけだと思う。
| okatta | 2011/01/13 12:42 AM |
okattaさま

コメントありがとうございます。

同じようにシチュエーションの違いを指摘するコメントはツイッターでも一件頂きました。
シチュエーションは当然ことなりますが、人に何かをものをあげることに対する、あげる側のあり方や考え方について語っていることをご理解いただければと思います。それぞれの事例の違いを指摘して善悪の判断をしていけばきりがありませんが、それを踏まえた上で寄付行為についての議論ができればいいなと思います。

今回の初代の伊達さんが行ったや誠意は、社会的にも賞讃されていいことだと思いますし、実際いい話だなと思います。ただ、公表してニュースになったのは、美談になるからであって、他にも施設にとって有益な支援をしている人たちは、たくさんいる。利害が一致しているかどうかに関しては、情報だけ取り入れている傍観者が簡単に判断できることではないと思います。


問題と向き合う重圧に耐えられないから匿名、とおっしゃった部分は、大変興味深く読みました。
このコメント欄に書く方々の、それぞれのスタンスを拝見しても、同じように感じます。


| saereal | 2011/01/13 2:01 AM |
いつもサイトを読ませてもらい、またツイッターもフォローさせていただいています。

「自分の行為で、人に幸せを感じてもらった、と感じること」
それが相手にとって本当に幸せなのか、迷惑なのかは別にして、このような行動には中毒性がありますよね。

だからこそ、慎重に相手の物理的なことも良く考えて行動しなければならないと思います。

嶋内さんは、そのことをおっしゃっているのですよね。

僕も同感です。そして思うことは、相手のこと、全体のことを考えながら、この中毒性がある行動原理を利用できないかな、と思います。

例えばサッカーという競技は、基本的に手でボールに触れることができない、というルールを作ってゲームをデザインし、プレイすることに対しても見ることに対しても興味を持たせるようにしています。

何か、うまくシステムなりをデザインすることにより、一人ひとりが大切な問題に向き合い、真剣に考え、半分くらいは人のことを考えて行動できるようなことはできないかな、とずっと考えています。

本来は、税制がそうあるべきものの一つですが、日本では、全くそうなっていませんからね。

ちょっととりとめのないコメントになってしまいました。

今回のたくさんの伊達直人の人たちの気持ちを、さらに効果のある力に変え、みんなが嬉しい、そんなことができないかな、できたらいいな、と思っています。

ちなみに、私のブログでも、全然別の角度から伊達直人の件を書いています(寄付とか、そういう観点ではないです)。よかったら見に来てくださいね。




このような
| kamakura16 | 2011/01/13 5:44 AM |
伊達直人で検索して、ここに来ました。

私の場合は、阪神大震災を思い出しました。
いろいろ持ってきてもらうのはありがたいし、
余ってしまうのは申し訳ない、という気持ちも
ありました。期限切れの食品であっても、
気持ちはありがたいと思います。

わざわざ道の悪い所来てくれたんだな
何が必要かを考えた結果の物なんだ、と
思うと、ありがたいものです。

パキスタンの話と今回の話は
違うようで、似ていると思います。
私が感じている変な違和感は多分別のところにあって、
「他の人がしているから」というような、
他人に背中を押された形の後発の行動です。
前例に倣え、というのが、どうも違和感です。

伊達直人はひっそりと贈り物を
したかったんだと思います。

自分が相手と同じ境遇で、
あの時こういうものが欲しかったと
思っていたものを、静かに送る、というのが
ランドセル、と言う形だったのでしょう。

しかし、
うがった見方をすると、覆面とは、
相手の反応を見ずして、「いいことした」
と言う実感だけが味わえる、
都合のいいシチュエーションにも思えてしまいます。

やっぱり自己満足かなと思います。
相手が喜んでくれるかと考えると
贈り物は、どういう場合でも難しいですよね。
それを考えずに送るのは、やはり自己満足だと
思ってしまいます。

気持ちのキャッチボールが必要です。
(伊達直人さんの場合はOBというのが前提ですよね)

ただし、自己満足がいい方向に結びついてくれれば
それはそれでよいのだと思っています。
お邪魔しました。
| 小橋 | 2011/01/13 9:07 PM |
考えさせられるブログです。

ただ、
このブログを読んだ人が、偽善とか自己満足について悩んで行動にうつすことにためらいを感じてほしくないです。

行動にうつさなかったら何もしないことと一緒です。

「何かをしてあげたい」という気持ちは大切に、
まずは行動にしてみてほしい。

saerealさんのように、
行動にうつしたからこそ、
わかることがあるんです。
| revol | 2011/01/13 11:30 PM |


初めまして。
ツイッターから来ました。


この記事、とても嬉しく読ませていただきました。
私は、何かひとつの出来ごとが起きた時、
色んな視点からの想いや言葉を聴きたいと思います。
ですが、報道などはいつも一辺倒な気がしてなりません。
なので、この記事を読み、
新しい考え、また私と共通する考えを知れ、本当に嬉しく思いました。


私はまず、伊達直人の事件を知った時、
日本はお金があるんだな、と思いました。

日本には今、貧困があります。
ホームレス状態の方がいる事、働けない人々がいる事は、日本の深刻な問題です。
世界の中でもお金がある国なのに、
どうしてお金がなく苦しむ人々がいるのでしょう。
どうして一部の人にのみお金が集まり、
そして、お金がない人はその人の責任だと罵られるのでしょう。私はいつも、そこに悲しみを覚えています。

伊達直人の事件を知った時、
色んな思いが心に募りました。
社会保障は無駄だとか、お金がない人はその人の責任で、仕事を選ぶ人々は甘えてるとか、言われているのに、
<寄付>や<善意>の名前だと、
人々はお金を出して、プレゼントをするのだと。

それはきっと、あなたの言うとおり、
自分が嬉しいから、いいことをした気持ちになるから、という気持ちがあるからだとも言えると思います。


私が一番怖いのは、
<寄付>する人が偉い、という気持ちです。
私は、いつもそこで働き、いつもそばで子どもたちを支えている人こそが、もっと称えられるべきだと思うんです。

ランドセルや食べ物など、
実際、助かっていると思います。あるだけの分、よりよい環境になることは確かだからです。

でもあなたの言うとおり、考えるべきことは他の所にあると思います。
いいことした♪、と想うことよりも
もっともっと、事実の奥深くを知ることが大切です。


ものよりも大切なものが、世界にはあります。
そして、その大切なものを守るために、
ものがあり、食べ物があり、生きていくのだと思います。


うまく書けませんでした。
伝えたいことは、あなたの記事にとても共感したということです。本当に嬉しかったです。


ありがとうございます。
| yu- | 2011/01/13 11:39 PM |

コメントどうもありがとうございました。

revolさんとyu-さんのコメントを読んで、泣いてしまいました。
届いたものがポジティブな気持ちで本当に良かったです。

>私が一番怖いのは、
<寄付>する人が偉い、という気持ちです。
私は、いつもそこで働き、いつもそばで子どもたちを支えている人こそが、もっと称えられるべきだと思うんです。

この部分は本当に同意します。自分が偉そうな事に気づかなくなったら、自分は人間として終わると思っています。

これからもずっと行動し続ける人間でいたいし、もっとそうなりたいと思います。ありがとうございました。
| saereal | 2011/01/13 11:57 PM |
おっしゃっていることにはおおむね共感しましたがひとつだけ言わせてください。

>何かをあげるとき、それが本当に相手の役に立つかを、思い込みや価値観の押しつけじゃなくて真剣に考えること。

これは当然としても

>向き合う人を、彼らが自由に使える形で支援すること。(つまりどんなものにも替えられるお金。)

について。もし性善説に立って「向き合う人」が適切にそのお金をつかってくれると仮定したならそれでなんの問題もありません。しかし、こういう善意の寄付というのが寄付された後、実際にどの様に使われるのか寄付した本人はその道筋を知る術がありません。精々○○○円を○○○に使いましたと聞かされる程度です。そして、寄付されたお金というのはその集められた所属団体の采配で配分されるため、ある意味での利権が生じたり、経費が多く取られすぎることもあるかも知れません。日本ユニセフ協会だと寄付金の25%が(日本ユニセフ協会の)経費、その残りをユニセフ本部へ送金すると言われています。ですから、又本部で経費を引くからどのくらいになるのかというものです。このことから考えると、寄付をするのなら、お金だと何かに消えてしまうかも知れないから品物を直接持っていった方が確実ではないかと考えます。「彼らが自由に使える形で支援する」ために品物でなくお金を支援するというのは、それはそれで配慮なのかもしれませんが、それがその後実際に何に使われたのかまできちんと確かめ見届けなければ、逆に無責任な行為にもなりかねません。今回の伊達直人騒動では現金の寄付もありましたが、そのような人たちのうち一体どれくらいの方が「お金なら自由に使える形での支援だからあげても迷惑になることはないだろう」という理由からだけでなく、最後までそれがどのように使われたのかを見届ける覚悟があってしているのか多少疑問をもっています。その覚悟がある人なら偽名での寄付は行わないでしょうから。お金による支援の場合においては、責任ある支援と匿名での支援とは矛盾しているような気がします。

| nero | 2011/01/14 7:33 PM |
neroさま

コメントありがとうございます。

私もneroさんのご指摘にもあるように、現金を渡したとしてその渡された団体が本当に助けを必要としている人のために使っているのか、については様々な例があると思いますし、実際支援金の横領なども決して珍しい話ではないと聞いています。
お金が万能だとは思いません。

ただ今回のランドセルの件に関して言えば、施設に電話して、今年小学校に入学するこどもの人数を聞いた。そこで、ランドセルが買える分のお金を置いて、できればランドセルを買ってあげてください、といった寄付ではなく、自分でランドセルを既に買ってそれをあげた(つまり貰う側はその知らない人に寄付されたランドセルを選択の余地なくそれを使わざるを得ない)というところにも、実はここで書いたことと共通する違和感があります。


他の方のコメントの中に、

覆面とは、
相手の反応を見ずして、「いいことした」
と言う実感だけが味わえる、

とか

「喜んでもらえますよね!というオーラ」出しようがない。
匿名で、誰もいない時に置いていくのだから。
見返りを求めていない

という指摘がありましたが、私はこの事例においても、現金で渡すという方法もありうるのではないかと思います。
実際児童施設に勤めている方のブログやコメントを拝見して、こどもたちと施設にいつも関わっている人たちの関係がとても強いことも知り、またランドセルのような長年を通して使う大事なものは、なるべく親族や近い関係の人に買ってもらうようにしている、という記事もいくつか拝見しました。
6年間使う、小学生にとっては気持ち的にもとても大事なランドセルであれば、そういった寄付で頂いたお金を施設を通して補助的に使ってもらって、こどもが近い関係の人が一緒に買いにいくという方法も考えられるのではないかと思います。


ランドセルという現物を買って寄付をした人は、自分があげたランドセルを6年間背負ってくれる。こどもたちにとっては、もちろんランドセルは嬉しいものに違いありません。それだけでその何人ものこどもたちの6年間を否応無しに一緒にいるものを買ったのですから、ランドセルというとても高いものを買っただけの「見返り」は十分以上に貰っているように思いますし、人何人分もの年間をずっと使ってくれるという「期待」も十分にあったと思います。

>お金による支援の場合においては、責任ある支援と匿名での支援とは矛盾しているような気がします。
この点についてはおっしゃる通りだと思います。
それぞれ、何かしたいと思う方の中にも、色んな気持ちがあるでしょうから、それぞれの意思はリスペクトされるべきだし、どういう形もありなんだろうと思っています。
個人的には、自分がマンスリーサポートをしているところは、個人の名前はどこにも公表されないという匿名性と、集まったお金の使い方を年次ごとに1円単位まで詳細に報告してくれるところに信頼を持っています。

| saereal | 2011/01/15 1:23 AM |
下手をすれば、思うように伝わらず誤解をされてしまう内容を取り上げてくださって、ありがとうございます。


私は小さい頃からなぜか「施しはうけられない」という気持ちを持っていました。それによって立場が決まるのが怖いから。
本来、そんなはずないんです。だけど、人の心理にやってあげる人の方が上、という立場が決まる土壌がある、と、私も、おそらくみなさんも、友達や大人たちを見て学習してきたのではないでしょうか。

暗に求めてしまっている「喜んでもらえるはず」という報酬は、受け取れるととても甘美なものですね。
少しでも困った顔をすると「嬉しくないの? せっかくしてあげているのに」と切り出す方がいます。
自分も、言いはしないけど「喜んでもらえなくて残念だな」「せっかくしてあげたのに」と思ってしまう部分を持っています。

相手の機嫌がそこなったら嫌だな、面倒だな、など考えると純粋に喜べないこともあるでしょう。
嬉しくないけど、押し付けの親切に何もいえない、という事も少なからずあります。

そういったことから
してあげる よろこんでもらえないと不満 という点について、よく考えるようになりましたが、
いつしか
「ただ喜んでほしい」と思ってやったことが押し付けになっていないかな?
自分が気持ちよい気分に浸りたいからじゃないのか?
必要なかったのではないか。

と、いうことまで気にするようになっていました。


自分は「ありがとう」と難しく考えずにご厚意を受け取っているのに、
自分がした行為には小難しく考えてしまう。(結局、相手の顔色を伺っているのかもしれません)
これは考えすぎて萎縮した結果かも。


差し出す側は、「喜んでもらえたら嬉しいが、(喜ばれるだろう、など)希望する受け取り方をされなくても不満に思わない」と、
相手に希望の対応を求めず押し付けず、フラットに考えられたらいいな、と思っています。
とはいえ常に純度100%でいることはなかなか出来ないことです。
考え方、感じ方、状況、環境によって、同じ人でも物事の理は変化するものだし、
自己満足や偽善などにばかり捉われていたらキリがありませんから、
あまり難しく考えずに、行動すること。それで良しとします。(アレ?笑)

もちろん、適切なところへ適切な方法で届けられるように、選別することは必要と思いますが。


受け取った側も変に卑屈になったり縮こまる必要はないんですよね。
それと、差し出された厚意にたいして、率直な気持ちを言って言いのだ、と考えをあらためました。


とりとめなくてすみません。
他の方へのコメントも含め、共感したことと、自分の意見を述べたくなりました。

| よるくま | 2011/01/15 1:36 AM |
よく「寄付でお金をあげれば解決する」
みたいなのには賛成できない。
「じゃあ、あなたの全財産を貧しい人に全部渡すことはできるのか?」
たぶん、そういうことですよね。
「偽善じゃないか。」


「助ける人」から「助けられる人」へ「心」がつながって、
「困っている人を助けたら、
自分にも良いことが起きる」
そんな良い習慣の輪を世界中に広げることができたら。
だったら、素晴らしい。

たぶん、与えるべきは「物」や「お金」ではなくて、
「心」を与えるのが必要だと思う。
「愛された感動」
「愛するための勇気」
私は貧しくて「絶望」していた。
でも、「寄付により私を愛してくれる人がいる」
と信じることで、
「私も誰かを愛してあげたい」という「希望」が生まれて、
次の世代では大勢の人が「希望」を持って、
もし、自分たちが頑張れば、
まだまだ、自分の世界は良くなるんだよ!

ヒトの3要素「頭(思考)+心(感情)+体(本能)」中枢バランス
がとれた「寄付」ならば成功するだろう。

「お金を与えればOK」は、
与える本人の「頭(思考)」だけの狭い自己満足。
だから、
やるべきは、
より多くのヒトたちが協力して、
「頭(思考)+心(感情)+体(本能)」をつなげること
それは、結局、豊かな国で良い企業がみんなが共通の目的のために、目標を達成するために協力している状態を作り出すのと同じ。

ぶっちゃけ、
「貧しい国の中に超優良企業を誘致すれば、良い」
なんですけど。
でも、「問題が自分の身に降りかかるのは勘弁」
って良いとこ取りだけする「自分さえ良ければ良い」わがままから抜け出せないのが、人間の弱い所だ。
私も同じだろう。
貧しい人々が生きるために戦う姿に、
私はビビってしまい、力が出ない。
情けない話だ(笑)

以上です。
| じゃぎお | 2011/01/20 4:06 AM |
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