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プロフィール(研究関心+業績など)更新と今年度の目標



2014年度の目標は、

研究関連では、単著出すこと。企画書をもって営業もするし、出版助成にも応募する。
次にインパクトファクターの強い英文ジャーナルに論文を出すこと。
プライベートでは、週に2,3回はジムに行って腹筋割ること、47キロくらいまで減らすこと。今月末にハーフマラソン走るので、体を軽やかにしたい。
最後に教育面では、一回一回の授業に手を抜かずに、記憶に残る授業をする、学生の学びへのモチベーションを高めるような刺激的な授業をすることです。

業績の頁を更新しました。
→こちら。

そのうち本の企画書もここにアップしようと思います。

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言語との付き合い方について考えたこと(『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法』を読んで)



ノウハウ本的なものはまったく読まない私だけど、Twitterでも興味深く発言を読んでいる齋藤淳さんの著書で「非ネイティブエリート」というキーワードに惹かれて購入。実用的にも実際に英語を教えている立場の人間にとってもとても参考になる内容だった。

私が非常勤先でやっている英語によるディスカッションゼミで学生達が一番苦戦しているのも、思っていることをすぐに言葉で伝えるっていう部分。自分の状況や伝えたいという思いが先にあり、そのツールとして英語が出てこないことにもどかしさを感じてしまう。日本語でさえ自分の伝えたいことを正確に伝えるって難しいのに、いわんや英語をや、という感じだ。本来は、まずは自分の伝えたい状況が先にあって、自分が一番得意なことば(私の場合は日本語)では伝えられないので、相手との共通ツールとして他の言語(たとえば英語)があるんだけど、日本の英語教育ではまず言葉があってそこから状況を伝える(和訳や日本語での文法説明)、という方式で行われている。

私は、初期段階での文字・文法指導は非常に大事なのできっちりやるべきだと考えているが、ある程度の英語力(TOEICで半分取れるくらいの)がついたら、あとは自分の考えをその英語を使ってアウトプットする方向へ勉強/教育方法を変えてもいいのではないかと思っている。

個人的に、今までの英語の勉強で一番自分のアウトプット英語力につながっていると思うのは、バイリンガルの大学院に行っていて、ゼミ仲間や会議で英語で議論せざるを得ない環境に置かれたことと、英語で話すドラマ&映画を英語字幕で見たことの2つだ。後者は趣味と実益を兼ねて今でもよくやっているし、前者は仲のよい友達とはだいたい英語が媒介言語だったり、海外主張や学会発表なんかを通じて、定期的に話す機会とモチベーションを得られていると思う。

本書にもあった、ネイティブに指導して貰えれば英語が伸びるというのも大きな間違いというのは私も同意していて、実際に私が英語を最も参考にして学んだのは、まさにこの本のタイトルにあるような非ネイティブエリートたち。英語のネイティブは確かにネイティブしか使いこなせない言い回しとか、英語を使っている時間の長さがもたらしたこなれた表現の魅力のようなものは確かに存在するけれど、非ネイティブで意識的にあとから英語を吸収した人の方が、文の組み立て方が参考になるのだ。文の構成の仕方も、ノンネイティブは意識的に行って話しているので真似しやすい。


この本を読んだ前後に、こんなネット上のエントリーも読んだ。

避けて通れない大問題。「英語」について

言葉を使って人とコミュニケーションを取ること自体は基礎中の基礎であり、何語にしろ言語能力を磨くのはみんな努力したほうがいい。

一方で、言語っていうのは限られた人が持つ特権でもあるってことを忘れてはいけないと思う。
生まれ育った環境とか新しい言語を学ぶための時間とかお金とか、色んなものが揃ってこそ言語という財産を得ることができる。

私が授業をするときにかなり意識的にやっているのは、学生の話を聞いている時に必ず肯定的な態度で相づちを打つこと。

ちゃんと聞いていて、そして相手が言葉を探して沈黙しているときも「聞いてるよ、言いたいこと聞こうとしているよ」という態度をきちんと出すようにしている。上のエントリーにあったように、私も自分の言いたいことがうまく言えなくて、いわゆるネイティブの人に「はぁ?」と顔をしかめられたりして気持ちが萎縮した経験がたくさんある。対学生ではより英語という財産をより多く持っている立場にいる今はいるけれど、同じことはしたくないと切に思う。伝えたいという思いがあるけれど伝えるための道具を持っていない人はたくさんいて、それど努力不足やましてやその人の能力や人間性の否定につなげてはいけない。

この話は英語だけじゃなくて、日本語話者である日本に住む人々にもいえる。6年後、オリンピックで海外からの旅行客をたくさん受け入れるときに、非日本語話者で日本語を少し学んでいる人や旅行者の話す日本語を、たとえ分かりにくい日本語でもたどたどしくても、伝えたいと思っている人の言葉は一生懸命聞くという態度を持つことが重要なのではないか。

最後に、この本のエピーローグにあった「どうしたら自分のインパクトファクターを社会に対して最大化できるか」という考えのもとに英語の塾を開くことにしたという道の開き方に感銘を受けた。私も自分と社会をそういう関係性で捉えたい。



私は言語を学ぶのが好きである。そもそも勉強自体が好きな方なので(新しいことを知るという意味での勉強ね)、新しい言語を知っていて、人とコミュニケーション取れたり、言語を通して新しい発見や知識を得たりするのがとても楽しい。もちろん、資格や目標があるとそれに届かない自分に直面するので苦しいこともあるし、努力しているつもりでも自分が勝手に設定した期待値に届かないことも多々あるので、凹んで嫌になることもたくさんある。でも基本的に、言語を学ぶのは楽しいと思う。

英語ができたら幸せになれるよ!と言えるほど私はおめでたくはないけど、英語に関連する授業をやっている非常勤講師として、新しい言語や新しい言語を通して何かを学ぼうとする人が、これって結構幸せなプロセスなんじゃ?と思えるようなお手伝いを出来たらと考えている。
| | 16:04 | comments(0) | - |
アルゼンチンへの旅と学会
6月の終わりから移動を入れて10日間。
アルゼンチンのブエノスアイレスに世界比較教育学会の世界大会に行ってきました。
そのあと現在の所属大学で日本比較教育学会。運営委員会であり、かつラウンドテーブルと個人の自由研究発表があった。この一週間の私は、アルゼンチンで発表→移動・時差ぼけ→非常勤二コマ→比較教育学会でラウンドテーブル登壇→二次会→終日運営委員会でばたばた→学会最終日個人発表。今は非常に寝不足なので、少し感傷的なことを書く。

楽しい学会だった。今まで英語でやった発表の中では一番落ち着いて、うまい伝え方ができたと思う。いくつかの興味深いセッションに参加して、今後自分が取り組みたいことのアイデアも湧いてきたし、何より次は英語で書こうという強いモチベーションが湧いた。そして、自分が歳をとったときに、若手の研究者に「she is good」って陰で噂されるような研究者になりたいなと思った。もっと勉強しなきゃ行けないことがたくさんだなあ。

アルゼンチンでは韓国の研究者の人に誘われて、部屋をシェアしていた。でも私には、なかなかリアルに話せる人がいなかった。正直、最初の何日かはとても居心地が悪くて、だから1人がもっといいと思っていた。1人でモーニングを食べ、カフェで何時間が仕事をして、街を歩くのが楽しかった。




一緒に過ごして気持ちのいい人、というのは、本当に国は関係ないんだなと実感する。文化的なことや、言語や習慣が共通していると居心地がいいかというと、私にとっては全くそうじゃない。男性も女性も関係ない。合わない人とは合わないし、合う人とは合う。


仲良くなった人の中には、もう名前を忘れてしまった人もたくさんいる。中国の北部、カシュガルからシルクロードの一部まで、4日間くらい一緒にいたアイルランドの男性とブラジルの男性。毎晩遅くまで一緒に飲んで、色んな店に行った。shit headというトランプゲームをおそわり、毎晩やって、たらふく中華を食べ、ずっとおしゃべりしていた。

コロンビアーナのタティアーナ。香港の大学で中国語を習っているときにあった。あのとき日本から来た学生はたくさんいるなかで、一緒にいて楽しく心地いい人は本当に少数だった。その中でタティアーナとは色んな話をした。アジアの文化のことからファッション、とくに恋愛や男女関係の話をたくさんした。こういう話ができる女友達を、今でも恋しく思う。中国語のクラスにいて、私たちのレベルは同じくらいだったけれど、両者とも英語の方が中国語より便利だったので、結局ずっと英語で。

オーストラリアで学会に参加した時。現地ではたくさんの日本人で早稲田から行っている人がいた。そのとき一番抱えていた悩みをなぜかすぐに話してしまった女友達がいる。今でもそのことは彼女にしか話していない。何だろう。波長があったときに、いつもは縛っている心の紐がふっと解けてなにかを話してしまうような。

同年代じゃなくて、大分年上の人とそうなることもある。高麗大学にフィールドワークにいったとき、たまたまvisiting scholarとしてスタンフォード大学から来ていた経済学の研究者ともなんだか仲良くなった。夜のソウルを徘徊して、お店を梯子して、アカデミックなことやら将来の悩みやら、日韓の文化についてなど話した。

私は元々感覚的な人間で、その感覚を小さな頃から持て余していた。考えすぎたり、重すぎたり、勘違いしたり、自意識過剰になったり。持て余すほどの自由を持っているのだが、自由は孤独で、寂しくて、疲れるし、いつも闘わなければ行けない。拘束されていた方が、実は楽なこともたくさんある。それでも自由じゃないと耐えられない人間な気がする。たとえ海外旅行が大好きでもずっと行っていると今度は日本が恋しくなるように(そしてずっと日本にいると息が詰まりそうになってまたどこかに行きたくなるように)、拘束と自由の間を行ったり来たりしている。



飛行機のなかで、TCK(Third Culture Kids)に関する本を読んだ。私はTCKではない。でも似ているなと思うところもある。地元や故郷というものが自分に根付いていない感じ。

人間関係が安定するまでのコミュニケーションには、表面レベル、安全圏レベル、判断レベル、感情レベル、打ち明けレベルがあり、TCKは、これらのステップをすすむのが早く、積極的に相手の意見を聞いたり議論したりするのを好むという。自分が合うなと思う人と出会った時。なぜかあってすぐなのに、今まで人に話したことのないようなことを言ってしまったりする経験は、さっき書いたように私にも多くある。問題は、表面レベル、安全圏レベルの会話、5段階目に至るまでの前置きのようなそれを、大事だと思えない自分の心性にある。うまくいく人とはなにもかも飛び越えて仲良くなれるし認め合えるしリスペクトし合えても、日常生活で求められるのはもっと基本的でさらさらとした心地のいいもの。私も大人になって、だいぶそれができるようになった。でもそれを自分の強みとして認識するまでにはなっていない。大人になるって、それをうまく自分の技術として認識して、自信をもって使いこなせることなんじゃないのかなあと思う。




| | 23:49 | comments(0) | - |
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本日、中間審査に合格し、無事Ph.D. Candidateになりました。

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恋人のお父さんに、仁に出てくる坂本龍馬に似ている、と言われて、仁を見始めた。
私が似ているとは思わないけれど、内野聖陽の演じる龍馬はすごく、魅力的な龍馬だった。私は福山の龍馬よりも、断然好きだったのだ。でっかい、でっかいこころをもっているがじゃ。
今聞いたら、きっと思想的な何かと結びつけて胡散臭く感じてしまうけれど、「死んでいった人たちにできるのは、その人たちが、もう一度生まれてきたい国をつくることだ」という台詞が心に沁みた。

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ちなみに仁(1&2)はこのアメリカのサイトで、かなり高画質(+字幕付き)

明日から学会で京都に行ってきます。


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小学校英語教育について

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小学校英語教育についてのご意見を聞かせて下さい。

ガチな質問ですね。
小学校英語教育について賛成か反対かと問われれば、非常に懐疑的だといわざるを得ないのは非常に残念です(エレカシ風に)。

私はJ-SHINEの小学校英語教育指導者資格を取得しておりまして、来たるべきときには小学校で英語指導に従事することも考えているし、教育者としても学習者としても、英語教育には非常に前向きに積極的に関わっていきたいなと思っています(*)。懐疑的なのは、なにをどのように教えるのかについて、まだ議論や視点が十分ではなく、考えるべき部分があると思からです。

まず前提として、小学校での外国語学習(=英語学習)について、
・何のために学ぶのか
・他の外国語ではなく、英語である必要性
・どんな英語を学ぶのか

この3点について、政策立案者・学者・現場の教師たちが中心となって学生・保護者も巻き込んで、再考する必要性があると思っています。

文科省の文面によれば小学校の外国語学習は、コミュニケーション能力(=人の話に耳を傾ける、自分の考えや調べたことを自分の言葉で表現する)の素地を養うこと、とありますが、実際にはもっとわかりやすく、アジアでもっとも低いと言われている日本人学生の英語力を高めるため、小学校のことから、英語の基礎を身につけることが目的なのだと思います。

同省によれば、小学校5、6年で英語活動を必修化して、同省作成の教材「英語ノート」で285の単語と中学1年レベルの50の表現を教え、6年生終了時点で英語を使って遊んだり、自己表現できたりすることを目指すそうです。文法や単語の書取は教えないそうです。

以下は、私の個人的な意見です。
・何のために学ぶのか
本気で英語を話せるようになるためには、週一回や1、2時間ほど勉強しても英語力の向上はそれほど望めない。書き取りを教えず、音で単語や会話文を覚えさせて、本当にコミュニケーションの能力の素地を養うことができるのか?という点にまず疑問。
また、小学校英語の目的が、英単語やアルファベット、英語の音に慣れ親しむ、というだけでは、中学校以降の英語教育とつながらず、形骸化してしまう可能性がある。
実際私も、小学校のときに週一回英会話教室にいって、英会話のまねごとみたいなことを半分遊びでやっていたけれど、音としてhow are you? whare are you going?のような会話文を覚えて英語に「慣れ親しんで」いても、中学に入って役に立つことは、ABCを見慣れているということと、音に慣れがあるということ程度。中学に入って、英語の文型・スペルなどを1から記憶し始めるわけで、果たして小学校で英語学習に費やした時間の分だけ、英語の能力は上がっているのか?というと甚だ疑問だ。
本気で英語力の底上げを考えているのならば、中学校英語との連携も含めた、包括的なプログラムを組むべきだし、文字を介在させない外国語学習を、5、6年生から始めるというのも遅すぎる。音や単語や丸暗記を中心とした英語学習をするのなら、幼稚園や小学校1、2年でするべき。

・他の外国語ではなく、英語である必要性
異文化コミュニケーション、外国への興味や多文化理解のための外国語教育で週一回の文化体験的なものを求めるのであれば、英語である必要性はない。英語を学ぶ時間もあれば、ほかの言語や文化に触れる時間があってもいい。その小学校のいる地域で一番多い外国籍の人が英語圏の出身者であるということは、日本の場合ほとんどないはず。在日や日系の人々や華人の歴史について学ぶことも重要だし、彼らの話す言語、韓国・朝鮮語や、中国語や、ポルトガル語・スペイン語などを学ぶことも大事。英語圏からネイティブ英語話者の教師を読んでアメリカの歌を歌ったり、ハロウィンやイースターのまねごとをするのは笑止。

・どんな英語を学ぶのか
英語の目的は、日本語以外で日本語話者以外の人とコミュニケーションをとれることであって、ネイティブの英語に追従することではない。グロービッシュの研究では、多国籍・多言語話者の人々が集まる国際会議で一番理解されにくいのは、アメリカ・イギリス・オーストラリアなど、ネイティブの会話だという(語用を含めて、非ネイティブ同士の方が意思疎通がしやすい)。
個人的な考えをいえば 、ネイティブと同じ発音が「正しい」のではなく、”より多くの人に容易に理解できる発音”が「正しい」発音なのだ。自分と第一言語の違う他者に聞き取りにくいような癖は修正していくべきだが、それはネイティブ発音にあわせることとイコールではない。
日本では、英語の発音は10歳くらいまでにやらないと身に付かないから、英語の早期教育に賛成するという人が一定数いると思うけれど、私はその考え方には懐疑的。英語を語学として、コミュニケーションツールとして学ぶのであれば、「正しい」発音幻想は捨てていい。世界の人とコミュニケーションをするための通じる英語の発音は、早期教育をしなくてもいくらでも身に付く。そのこともふくめ、英語を学ぶことによって、どういう人とのどのようなコミュニケーションを目指していて、そのためにどのような英語を手に入れたいのか、ということを、もっとひとりひとりがフラットに考えるべき時なんじゃないかなと思う。


以上思ったことをつらつらと述べましたが、私は個人的にも、英語が(それなりに)話せることの恩恵を受けていると思うし、英語の重要性も、英語の楽しさも、そしてその他の外国語能力を手に入れることの重要性と楽しさも、同時にわかっていると思います。ことばを学ぶってことは、自分の存在のあり方を変えることでもあるから、小学校英語の問題についても、それぞれがもっと考えて、議論して余ることはないと思っています。


(*)(私は語学を教えるにあたって、他に別の仕事や生き甲斐を持った人が副業として教えるという形態が非常に貴重だという持論があります。もちろん語学教育の専門家も必要だし重要だと思うのですが、学生たちは語学教育を通して新しい世界をかいま見るわけだから、例えば普通の企業で働いているサラリーマンのひとや、普段は家の仕事で忙しいひとなど職業を他に持った人が、平日の一日や土曜の午前だけ小学校での課外授業を担当するようなしくみをつくるのがいいんじゃないかと思ってます。その意味で、私も副業として小学校英語教育に関われるように、J-SHINEの英語指導者の資格とTESOLの資格をとりました。自分はあまり地元のコミュニティに密着した幼少時代を送ってこなかったので、もし自分が新しい家庭を築いたら、地域の小学校などで英語の教育に関わっていきたいなあという夢があったりもします。以上蛇足でした。)
| | 12:39 | comments(0) | - |
ひとりロスを歩いて。

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わたしはたぶん単純に、バスは好きだ。タクシーにいたら見ることができない、色んな人間模様を見ることができる。

ボードをもった男の子ひとりと3人連れが、ビーチでお互いを認識していた、という理由でいきなり友達になり、電話番号を交換してお互いの彼女の話をし始めたり、車椅子にのっている人がバスに乗車するたびに、思った以上の手間と時間がかかるのをこの人は気にしていないだろうかと心配になったり、バスから降りるたびに比較的多くの人が「ありがとう」ってバスの運転手さんに叫んで降りる事(私も叫んだ)を知った。


海の近くに住みたい、と心から思う。私が一番怖いと思うのは、大陸のどまんなか、歩いても歩いても果ての見えない場所だ。海はなにかの終わりとはじまりを両方ちゃんと知っていて、私にもそれがあることを教えてくれる。まともに泳げない私にとって、海はつまり自分の限界を目の前に突きつけられているようで、気持ちがいいのだ。大陸のどまんなかにいると、いつも自分の小ささばかりを感じ、そして絶え間なくずっと歩き続けなきゃいけないことを感じるようで怖い。


例えば海外に来て、こっちの人が当たり前にしている挨拶や礼儀をしなかったとする。それは自分の文化を違う場所に持ち込んで、気付かないだけなのだけど、現地の人間はそれを見て「〜人」に対するネガティヴな感情を抱くだろう。

私は基本的に自意識過剰ぎみなので、「旅の恥はかきすて」的なことができないばかりではなく、相手が自分をどう見ているかも、とても気になる。

そしてそれらの多くは、人びとの話す言葉によって判断されていると思う。ことばに宿る。
人がもつ社会的背景や育ちや性格や魅力は、言葉に現れるからだ。
その言葉の受け入れられる範囲が広い社会が好きだ、と思う。


なにもかもが大味なアメリカ。
どぎつい色をした液体やシリアルは食べる気にならないけど、
声を上げたときは、ちゃんと耳を傾けてくれる社会がいい。
たとえその声がちょっと「変」でも。






15日から23日まで、ASPACという学会での発表のため、カリフォルニア州に行ってきました。
初日はロサンゼルスのパサデナに泊り、二日目から学会会場であるPomona collegeのあるクレアモントに移動。週末までカレッジにいて学会に参加し、ロサンゼルスに戻り、UCLAなどを訪問してきました。

LAはとても広い。私は車を借りていないだけではなく、運転もできない。身分証明書の代わりに免許証を求められるような社会にはいつも一言文句を言いたい(日本のような小さな国で、特に都心に住んでいるのに何故猫も杓子も車を運転しようとするのか?) この国に行っても「タクシーは贅沢物」、というバックパッカー気質が染みついてしまっている私は、今日もパブリック・トランスポーテーションで移動。おかげで1日100ドルくらいかかるはずだった交通費が、往復で6ドルくらいですんだりする。青いバスに関してはすっかりエキスパートになったくらいだ。慣れれば、バスで移動するのはとても簡単だ。
「パブリックトランスポーテーションで人間力を養う」というのを考えた。

①まず現地の秩序を乱さないこと。そこで生活している人が自然にできることを、自分もできるようにする。下準備は欠かさないのはもちろん、臨機応変に素早く判断し、間違った場合は素直に受け入れる。戸惑って周囲を待たせたり、困らせたりしない。

②ただし私のように自他ともに認める極度の方向音痴の場合、迷わず目的地につけることなど奇跡レベルである。困ったら迷わず聞く。家族連れのお父さん、女性二人連れなど、信頼できそうな人を瞬時に見つけ、警戒心を抱かせない適量のスマイルで質問。

③質問から別れるまでのポイントは、相手が「大したエネルギーは使わなかったけど、人助けしてよかったな」と思えるような印象を残すこと。分りやすい質問で相手の解答の負担を減らし、かつ助かったということをちゃんと感謝のことばで伝えること。

私は本当に方向音痴で、どこに行っても(実際日本国内でも)、年中人に道を聞いて、色々教えてもらっている。そのプロセスを通して、どういう人に聞いたらいいのか、どういう人だったら迷惑にならず気分よく教えてもらえるのか、人間を見る目も質問力も上がったような気がする。

そんな私にしては、今回のバス移動は本当に割とうまく行った。バスの運転手さんにもいろんな人がいて面白かった。今回は私が聞くよりも、私が道やバスの経路を聞かれた方も多かった。「みんな、わかんないんだ」、と思うと安心して、どこだろうね?よくわかんないのよね、とかいいながら知らない人達とバスを待つのも一興だった。




今日から三日間、比較教育学会で早稲田にいます。
私の発表は日曜日、完全なる韓国スクールで発表(日本語)します。
| | 08:17 | comments(0) | - |
大学の国際化とその争点。-『なぜ、国際教養大学で人材は育つのか』を読んで
なぜ、国際教養大学で人材は育つのか (祥伝社黄金文庫)なぜ、国際教養大学で人材は育つのか (祥伝社黄金文庫)


前半は主に国際教育大学の歴史や理念、取組の紹介。後半は当大学の学長である中嶋先生の高等教育に関する問題意識や提言に、国際教養大学の取り組みが重ねられ、論じられている。
「なぜ、国際教養大学で人材は育つのか」というタイトル通り、基本的には国際教養大学が何を成し遂げたか、という性質の本なのだが、大学の単純な紹介だけではなく、その取り組みをもとにして今日本の高等教育が抱えている問題がなんなのか、今後何を考えていかなければならないのかを中嶋先生の問題意識と主張がはっきり提示させられていて、日本の高等教育機関に所属するものとして考えさせられる内容だった。


国際教養大学の特色・革新的な点について挙げていた中で、特に興味深いと思ったのは次の6点。


⑴ 幅広い国際教養教育を学ぶことができる
・・・・人口学、比較文化学など多様な人文学・社会科学系の学問に加えて、物理や生物などの自然科学系科目、また華道や茶道など、日本の伝統芸能も学ぶことができる。韓国の民族史観高等学校でも、英語で授業を行う一方で民族の文化に関する教科を積極的に教えているが、それと共通するものを感じる。国際化している大学だからこそ、日本独自の文化を大事に継承していこうという取組だ。「ローカルなものはローカルに徹することによってグローバルになる」(p. 105) と書いているように、日本の文化、秋田という地方に根づいた民俗芸能もアピールポイントにしている。

⑵ 4年間でストレートに卒業する学生は50%
・・・・「入るのは難しく、でるのはたやすい」日本の他大学とは違う、らしい。成績をGPAで数値化し、成績の悪い学生は勧告を受け、規定値に達しなければ留年する。ハーバードでもその割合は50%程度という世界のトップ大学の例も挙げられている。

⑶ 図書館は24時間オープン
・・・・多くの学生がキャンパス内にある寮に住んでいるという状況の中で、夜中まで勉強できるようにという配慮。セキュリティなどを考えると、周りに繁華街などないキャンパスにあるからこそ実現可能なように思える。もし都市部に存在すれば、終電を逃した学生の宿泊場所になってしまう可能性もある。早稲田の22号館のコンピュータールーム(24時間オープン)のように。私は今研究室があるのでこうして夜な夜な学校に残ることができるが、もしこんな図書館があれば学生にしてみればありがたい限りである。

⑷ ギャップイヤー制度
・・・・3月に入学を決定してから実際に入学する9月まで、約半年のギャップイヤーを設け、その間に個人でボランティアや社会経験など好きなように研修を積み、その経験も単位として加算することができるシステム。

⑸ 大学教員は教育実績を評価する
・・・・いくら優れた研究者でも、教育者として優れているとは限らない。採用の際には教員の教育実績をもっとも重視し、模擬授業も行うとのこと。これはその通りで、優れた研究者と優れた教育者は似ているようで異なっている。もちろん両方いいのに越したことがないのだけれど、研究業績よりも教育業績を見るという方針はなかなか革新的だ。

⑹ 教員と職員との壁がない
・・・・国際教養大学ではとても優秀な職員をそろえており、従来のような教員が上で職員が下、というような上下関係はない、という。私には大学職員として働いている友人が何人かいるが、彼らに「教授は政治家、自分たち職員は官僚みたいなものだ」という話を何度か聞いたことがある。職員に対して命令調に話したり、偉そうにふるまう教授もいれば、一方で教授に対して卑屈になって、階級で表敬の度合いをコントロールするような職員がいたりもする。教員と職員が対等になるのは本当に理想的だと思うが、そのためには、優秀な職員をリクルートしなければならず、実際伝統のある大規模な大学では年功序列・終身雇用制度によって職員が守られていて、新しく採用された若い職員の人は優秀でも、当然と言えば当然だが、すべての職員の人たちが新しい大学の在り方に対応できるようなスペックを兼ねそろえているわけではない。



また日本の高等教育改革や、人材育成の観点から、全体を通して彼が主張している点で私が賛成するのは、以下の4点である。

① 英語の上達のカギは単語力と勇気
・・・恐れずにどんどん発言すること。日本で言う「沈黙は金」は、海外では「沈黙は無能」である。

② 複言語主義
・・・ヨーロッパで実践されている母語+2言語は日本人にも可能である。「特に日本語+英語+アジアの言語は言語の世界を広げるためにもぜひ取り組んでほしい試み」(p.137) と述べられている。今後の地域戦略上も、アジア言語がより重要性を増してくるのは間違いないだろうし、英語+@の価値は今後どんどん上がっていくだろう。

③ 高等教育機関が国家戦略の一部を担う
・・・アフリカで資源外交を積極的に行っている中国が、アフリカからの留学生を中国の大学にたくさん受け入れ始めていることなどの例が挙げられている。

④ 世界を相手にする企業における、社内の英語公用化は望ましい
・・・・英語公用化について、当然この方針には様々な反論があり、「仕事ができないのに英語ができる人間ばかり重宝される」という懸念は、今後企業一つ一つの決断とせずに、社会全体で考えていかなければいけない問題だ。
語学力は目に見える形で明らかに人間をランク付けする。
誰が誰かより英語能力がある、ない、というのは話してみれば本人にも相手にも、明確に分かってしまう。


【英語はいまだ、特権】
そもそも英語という資本を持っている人間は、現在の日本の教育システムの中では、インターナショナルスクールや私立に通うことができて、英語に触れる機会が他の人より多かったり、シャドーエデュケーション(塾など)を受けるだけの経済的資本を持っている家庭に育っていたり、両親のうちどちかの仕事で海外に赴任していたりなど、小さなころから英語に触れる機会を得ていた人間である。小さな頃から無料の動画サイトなどを使って勉強していたり、独日本で普通の公立校にいながら独学で英語能力を上達させてきた学生も中にはいるだろう。しかしそれは現在を見る限り、ほんの一部の人びとに過ぎない。日本社会において、「英語力」は今でも社会的・環境的特権なのだ。


今の状況のまま、理想ばかり追い求めて日本語+2言語や、社内での英語公用化を進めるとしたら、もともと英語資本や外国語学習を可能とする資本を持っている人間を資するためだけの仕組みになってしまう。


その点、大学教育で英語を徹底的にトレーニングし、社会で使えるツールとしてから卒業させる、という教育を実践している国際教養大学は、もっと評価され、いい点でも悪い点でも参照されるべきだ。同時に「国際化」を大学の一方針として挙げ、グローバル教育に力を入れている(私も通う早稲田も含めた)他のリーディング大学も、学生を卒業するまでにどう育てるか、再考する必要があると思う。大学4年間のうちに大学が学生に対して提供できることはたくさんある。多くの学生にとって、大学の就職活動までの3年間が長い夏休みになってしまっているのは否定しがたい事実であり、もちろん学生の側にも責任はあるのだが、学生が遊んでいても卒業できる、というのは明らかに教育システムに問題があるといえるだろう。



【英語を教授媒介言語とした大学プログラムが抱える問題点】
上記のことに関連して、この本にもう少し含めてほしかったのは、国際教養大学が抱えている現在の問題も提示である。この本の主旨上、それができなかったのであれば、学長には今後講演会やウェブなどで、開校から6年たち、現在抱えている悩みや問題点、その原因などを分析して今後の課題を示してほしい。それらは今後、このような取り組みをあたらに始めようとする大学にも役立つだろうし、現在首都圏で国際化を図る数多くの大学にとっても、良い指針になるのではないかと思う。


懸念になったことの一つは、海外からの留学生の質である。
この本によれば、国際教養大学には海外からの留学生が100人ほどいて、アメリカ人38人、イギリス人8人、都心部の大学では多い中国人・韓国人・台湾人の留学生がどれも一桁台だという。早稲田ではよく、アジア圏からの留学生には比較的優秀な人が集まるが、西洋諸国、特に英語圏からわざわざ早稲田で英語プログラムに入る学生は、いわゆるエリート学生ではない、といわれている。

当然大学としては優秀な学生を集めたいのであるが、わざわざ日本にまで来て自分のネイティブの言語で勉強し、明らかにネイティブの環境よりは英語能力の落ちる教授陣・学生たちと勉強するという英語圏の学生たちが、英語で行われるプログラムを選んだ理由は何なのか。そこにポジティブな理由がたくさんがあれば、日本のソフトパワーを誇ることができるが、ネガティブな理由にも目をむけなければならない。「自分の言語である意味『楽』に勉強できますし、異文化体験もできますよ」程度の理由ではなく、日本でなければならない・日本でしか得られない確固とした何かをアピールできなければ、今後優秀な学生を集めるのは難しいだろう。


二つ目は、入学スクリーニングの段階で、英語の選考基準がどんどんあがるにつれ、英語が特権的にできる人(小さな頃からインターナショナルスクールに通えるような豊かな家庭の学生や、帰国子女など)のためのニッチ産業になってしまう可能性があることである。「とにかく英語ができる人」が有利になってしまうような入学選定では、他の大学には入れないけれども、英語力だけが飛びぬけている人をセレクトする可能性も出てくる。英語が得意な人が入れば、当然他の学生の英語学習に対する向上心を産む可能性もあるかもしれないが、特権者がトップにたつというゆがんだヒエラルキーを築いてしまう可能性もあるのではないか。実際この本の中でも、入学当初からTOEFL550点以上を持っている生徒も少なくなく、中にはおかしな優越感を持っている生徒もいる(p.174) と指摘がある。


英語ができる人の中には、海外(特にアメリカ)で中等教育を受けていたり、東南アジアのインターナショナルスクールでアメリカ式・イギリス式の教育を受けた層がいて、普通に日本で暮らし、それなりに英語をがんばってきた人との間には明らかな英語能力の差異が生まれてしまう。英語をがんばってきた人たちは、ネイティブ並みに話せる層を必要以上に羨ましがったりもする。同時に英語力は議論力でもあり、成績にも関わってくるので、大学に入ってからさらに英語力を伸ばすことを応援するシステムを作らないと、入学当時にある英語能力の差はゆがんだヒエラルキーとなって定着し、ネイティブ信仰や英語圏への精神的従属が生まれたりもする可能性もあると考える。


できれば入学当時の英語力はそれほど飛び抜けて高くなくても、英語を頑張る意欲のある学生を伸ばし、彼らが議論の場でも活躍できる存在になる方が、学生の健全なモチベーション・やる気を産むだろう。もともと英語を得意とする学生が当たり前のようにヒエラルキーのトップに君臨するようにならないために、英語資本がゼロの人間にどう英語という資本を持たせるか、というトレーニングの点にもっと重点が置かれるべきだと思う。







最近日本の就職活動がどんどん早まり、新卒ばかりが尊重され、留年したり新卒以外の学生に多くの就職のチャンスを与えないことが問題になっていおり、政界・財界・学術界で様々な議論がなされている。就職の問題に関しては、もちろん企業や国家にも改革すべき点があるだろうが、実は学生送り出しのイニシアチブを持っているのは大学なのであり、日本の就職活動の問題点を解決するために大学側が根本的な改革を打ち出すのことも必要になってくるだろう。


この問題に関して、この間上智大学で「東アジアにおける高等教育国際化の新展開と相互理解」シンポジウムが開かれた際に、あとの飲み会で北村友人先生(上智大学)が、これらの就職問題を解決するための日本の高等教育の抜本的改革として、1、完全鬩スター制 2、一単位ごとの授業料徴収 3、ギャップイヤー の3つを挙げ、この3点を省庁で話し合いがあるたびに訴えている、とおっしゃっていた。この点については、後日もう一度書いてみたいと思う。


東アジアにおける高等教育国際化の新展開と相互理解


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シンポ・ウィークエンド
消えた私の週末は、どこに行ったのですか。

どんべえのネコ

金曜日から日曜日まで、シンポジウムと学会のお手伝いで毎日5時台に起き、学校に夜遅くまでいた。
金曜日は私の所属するGIARIのシンポジウム。
早稲田大学グローバルCOE「アジア地域統合のための世界的人材育成拠点」
第4回 国際シンポジウム『アジア地域統合と安全保障協力』12月3日(金)9:30-16:30 早稲田大学井深大記念ホール 日英同時通訳 

私たちGIARIのフェローたちは前日から全員お手伝い、事務所の人たち、先生たち、助教の先生たちも総出でやったシンポジウムだった。
結果は大盛況。トラブルもなく、準備・撤収も非常に速やかに終わった。
これはひとえに、グローバルCOE事務所の人たちのロジが優秀であること、それから自分で言うのもなんだけど、私たちフェローがそれぞれの役割をきちんと果たしたことによると思う。

土日は、国際開発学会の21回全国大会、および20周年記念シンポジウム。
日曜日のシンポジウムには、私の大好き(なんてったってアイドル)なスピヴァクがくるということで、ウェブ配信を担当してた。
12/5 午前9:30-11:45 国際開発学会20周年記念大会公開シンポジウム
「開発を再考する―ポスト・グローバリゼーション時代の展望」
パネリスト:ガヤトリ・スピヴァク、クライブ・ハミルトン、西川潤 

国際開発学会はとても大きな学会で、研究者、実務者、政府関係者など会員の幅も広い。そのため、それぞれ一家言を持っている人が非常に多く、ロジにも非常に苦労している様子が伝わって来た。
ちなみに私は学会員ではなく、土日は本当に「お手伝い」に徹したのだけれど、色んなところから文字通りかき集められた人材でのお手伝いは割り振りがうまくいっておらず、よくわからないまま最後までなんとなく言われたことをやっていた、という人が多かった。小さなことだけれど、イヤホンの回収一つとっても、まさに「使えない」という形容がぴったりの仕事をする人もいて、いらっとすることが多かった。

考えてみると不思議な話で、国際開発学会の事務局やお手伝い要因はほとんどが日本人で、共通言語も日本語だった。GIARIの方は日本人はかなりのマイノリティーで、共通言語は英語。事務所の人は日本語で指示を出していて、それを何となく理解したフェローも入れば、分からない人もいたけれど、それでもうまく動いていたのが不思議。分からないけれど、お金のためにやっているわけじゃない、自分たちのイベントだ、っていう一体感があったからじゃないかと思う。(実際金曜日は当然バイト代的なものは発生していない。)

使えない、っていうのは、2種類あると思う。
一つは、何か指示を出したときに、その指示の言葉通りのことしかできないこと。同時に何かをやれば、かなり効率があがるのに、その工夫がない。そしてまた次のことを指示しなきゃいけなくなる。すると自分でやった方が早いから、貴方いらないよ、という話になる。
二つ目は、根本的な目的を無視して、原則やルールに縛られていること。
(例えばの、例。名札入れを回収しました。ひとつひとつ絡まらないように、それぞれのケースにひもを軽く巻いて集めていました。ある人がやってきて、そのやり方じゃない、とそれを全部バラして一つにまとめた。その理由は「ひとつひとつが絡まらないように」。しかし正直一つにまとめた方が、ひもは絡まる。(当然)しかし、もとからそういう風にやって来たからそういう風にしまわなければならない、という頭があるのか、二度手間になるのにもう一度全部整理し直す。「ひとつひとつ絡まらないようにする」という集める上での根本的な目的を達成しているのに、それに基づいて以前作られたルールを改善できず、また時間をかけてやり直す。)

学会運営も、そこにいるスタッフの意識とクオリティーによって、全く違うものになるんだなと思った。
労働時間や労働量は金曜日の方が断然多かったのに、当然土日の方が疲れた。



シンポ・ウィークエンドの前に、上原隆さんの文庫本を2冊買った。

雨にぬれても (幻冬舎アウトロー文庫)雨にぬれても (幻冬舎アウトロー文庫)

友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)友がみな我よりえらく見える日は (幻冬舎アウトロー文庫)

上原隆さん作品を読むのはこれが三作目。人々が直面する不幸を、戦後民主主義が悪いとか、経済不況や精神的支柱の不在を持ち出して分析するのが政治学や経済学や社会学といった学問だとしたら、上原さんの本は文化人類学的なアプローチに近いのかと思った。

市中の人に対面したときに、彼は自分の持つ価値観や考え方のディシプリンを彼らに当てはめて分析したり、判断することをしない。彼らの外見から言動まで、どこまでもディスクリプティブだ。

そして私が彼から学ぶのは、物語の終わらせ方。結論がない。でもその文章は終わる。ただその人の物語は、ずっと続いていることをちゃんと示唆してくれる終わり方。

以前読んで、上原さんを好きになった本はこちら。
喜びは悲しみのあとに (幻冬舎アウトロー文庫)喜びは悲しみのあとに (幻冬舎アウトロー文庫)

筆者の上原さんにインタビューしたこともある、BBのきよたくんに貰った本。
インタビューはここ。WEB MAGAZINE この惑星

一冊を読みおわってあとがきを読むまで、取材をする上原さんの自我を全く感じなかった。最後までずっと透明だった。

人は、みんな自分の視点からしか、世界をみることができない。
文庫版のためのあとがきに、恋人や友達に「おまえは人の気持ちが全然わかってない」と批判されたことについて書かれている。
どんなに細部まで観察して、一緒にいて、どれほど心を寄せているつもりでも、相手が「私のことなんてちっとも分かってない」と感じるのは、それがやっぱり自分中心の視座からしか人を観れていないからだと思う。

上原さんが書くときに思い出すのは、取材をした人々の、小さな仕草や表情なのだという。話すのが苦しいような話をするときに、手元のグラスの刺さったストローを回す手のこと。解説を書いてくれた鶴見俊輔さんを師とあおぐ人が、鶴見さんの前であおげば尊しを歌ったときの顔の皺。

私の鶴見さん贔屓を含めても、鶴見さんの解説がすてきなのは、上原さんをこう評価しているところ。
「売り物になる文章を書くところまで達した人は、そこでなんとなく、あとは、侫人になる。へつらう人という意味だ。だが、この人は、そういう人にならずに書き続けた。」


そう、人は、みんな自分の視点からしか、世界をみることができない。
鶴見さんは、「そのことは、しかし、共同の世界があることを否定しない」という。上原さんの提示するエピソードが、ひとを語る。それは確かに彼の目が観た、彼の書いた世界なのだけど、たくさんの小さな仕草や、表情や、周りの匂いや、色やそういうものがたくさんの人々の言葉と一緒に優しく包まれて、提示される。



電車の中で本を読むのは好きだ。
立って、片手ではつり革を捕まっているから、できれば片手で持てて手が痛くならない文庫本がいい。
ツイッターで、おすすめの文庫本を募集したら、友達やフォロアーの人たちがたくさんの本を教えてくれた。私が一人だったら、きっと手に取らなかった、知らなかったであろう本。今現在好きな本や作家でも、友達に教えてもらったものはたくさんある。私は一度嵌ったら、同じ作家の本をずーっと読み続ける。その嵌る作家リストが増えていくのはとても嬉しい。電車通学は毎日2時間。そのうち、混んでいて空気悪いと本を読むと気持ち悪くなるのでたいていツイッターを見てる。普通の小説だったら、2日の通学時間で一冊読める。おすすめしてもらった本を、ちょこちょこ読んで、またレビューを書こうと思います。きよたくん、波くん、のぶたくん、類さん、そしてフォロアーのみなさんありがとう。



2月はバンコクに2週間、3月はソウルに3週間行くことになりそう。
5月の比較教育学会発表@モントリオール・カナダのときには、そのフィールド結果を反映した発表にしたい。

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英語力について 2
*こちらは昨日(17日)書いた「英語力について」のフォローアップポストです。

自慢というのは、「自分が誇りに思っていることをひけらかすこと」であり、例えばそれが「俺はハエの種類の名前、全部言えるんだぜ!」みたいな、多くの人は大して羨ましがらないことでも自慢になりうるわけだ。「自慢」が相手の勘にさわるのは、その自慢が一般的に人が求めているもので、なかなか手に入らないものであるとき。

それが自分で得たものじゃないものの「自慢」であることが多いのは子ども時代。(例えば「うち、超金持ち!」とか「僕のおかあさんめちゃくちゃ美人なんだ」とか)私くらいの年になると「自慢」は、いい大学に入でてるとか、給料どれくらい貰ってるとかそういうことになるんだろう。

昨日の日記に関して、私の書いているものが自慢に思える、と思った人はどれくらいいるだろう。
書いたときに、そう思われるかもなあというのは一応危惧していて、嫌みな感じにならないように「努力は」していた。(だから免罪してほしいとは思っていないし、このようなコメントがくるかなあとは予想をしていた。)

なので、自慢と思われたことは甘受するのだが、ここで主張しておきたい点は、少なくとも私自身は自分が書いた内容に関して、誇りに思っている訳じゃない、ということ。どっちかというと、私くらいの環境にいたら、私くらいの英語運用能力があるのは当たり前だし、むしろ実際この程度でいいのかと危機感を覚えている。実際私は英語のおかげで、議論のときも論文を書くときも、日本語を使えるときとはケタ違いの鬱屈した思いを抱えている。第一言語(私の場合は日本語)が明らかに私の脳の中枢を占めていて、それこそ20すぎてから外国語を勉強するものにとっては、どう頑張っても英語で話すときに得る心地よさは、日本語のそれを超えることはないと思う。

うちの大学院みたいに、在校生の70%くらいが留学生で、修士課程のときから海外で発表するチャンスや、色んな会議に参加してほぼ強制的に英語社会にいれば、私くらいの英語力がつくのは当然でありしいて言えば義務であり、私はその機会を得るのがうまかった、もしくは機会という恩恵を得ているにすぎない。

昨日のAERA Englishのレビュー+英語力に関するポストをしたら、ツイッターでフォローをしてくれてる人が夜中に、「嘆いているように見えて、実は自慢」なんじゃないかというコメントをくれたのだった。その人はよく私のツイートにコメントをくれたり、RTをしてくれる人だったので、「これは中傷じゃなく、愛のある批判的コメントだ」と勝手に受け止め、ここでフォローアップポストをすることにしました。



同じく、facebookとbooklogが連携しているので、ブクログにアップしたレビューを友人が見て、facebook上でもコメントをいろいろくれた。その中で韓国の二人が指摘した、私のレビューに対する“disagreement”は、韓国社会(主に企業の経済的発展など)の成功が全体の英語力の向上によっている、という点と、英語を話せる個人がどれだけその英語力に恩恵を受けているか、という点。つまり、私のレビューを、韓国の英語熱に対する一方的な批判と読み取り、英語が社会や個人にもたらしたプラス要因がある、という点が不同意の内容だった。

私は、もちろん英語がもたらした韓国企業の成功や、英語力のある個人が受ける恩恵も理解しているし、英語教育が過熱せざるを得なかった韓国の社会的背景や地政学的状況などを指摘した彼女たちの意見には、完全に賛同する。(そしてそれを韓国人の友達から聞くのは、とても興味深かった。)

ただ、英語の覇権やそれがもたらす英語圏・英語社会への従属性や、英語がもたらす一社会の中での格差を憂慮している。英語ができるものが増えると、みんな自分の既得権益を守るために、英語が重視される社会を正当化しようとするし、英語が導いた成功を盲目に信じ込ませようとするからだ。

私みたいに職業学生的な身分だったら、TOEICの点数を上げたり、英語でのディスカッション力を伸ばしたり、がんばれるかもしれないけど、そうじゃない人にとっては時間的にも機会的にも、そして経済的にも簡単なことではないと思う。限りある時間と能力とお金を使ってすることが、多くの人にとって英語学習であることが、私はそれほど理想的な社会とは思えない。



英語は。
世界を広げる、とか社会的上昇につながるとか、個人に資する部分がある。
同時に、そういう人びとを集めることによって、海外にいっても現地の企業人と英語で交渉できる人材の多い企業や、グローバル社会における競争力を持った国民が集まる国を作ることができるし、そういう集合体に資する部分もある。

そこで発生する、みんなよりもうまくならなければ、という競争は、ただたんに知能の競争ではない。もともとどれくらい教育資本を持っているか、家庭が英語学習やその機会を支えるだけの経済的余裕があるかなどに大いに影響されている。

この間のAERA English特集を、ほおっておけなかったのは、そういうことです。


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英語力について
AERA English (アエラ・イングリッシュ) 2010年 12月号 [雑誌]AERA English (アエラ・イングリッシュ) 2010年 12月号 [雑誌]

AERA Englishが「韓国人の英語力」というすごい(気持ち悪い)特集をしていた。気持ち悪いと思った点はあとで書くことにして、内容は韓国の大学生にインタビューをし、どうやってTOEIC900点を取ったかのレポが巻頭に。ほかにも、韓国の高校のうち、英語を媒介言語とした教育をして、アメリカの有名大学に多くの留学生を送り込み、国際化と韓国国民としての民族的誇りと伝統の堅持を教育理念にもつ民族史観学校の取り組み、幼児からの英語イマージョン教育、江南地区の加熱競争など、韓国の英語熱に関する社会現象をカバーしている。同じようなことを修士論文のときに書いていたので、興味深くは読んでいたのだけれど、この特集の気持ち悪さは、その問題点とか日本への示唆という視点が欠如していて、ただ単に英語がうまくなろうイデオロギーだけで書かれているところ。

私は正直、英語狂いの社会に生きる韓国人学生を可哀そうだと思う。いい会社に入るために900点以上を求められて、巻頭のインタビューでは、韓国社会ではそれほど「名門」と見なされていない大学の学生が950点をとってもまだ低い、と言っていた。この競争は、所属大学の名声度や、大学での成績、インターンシップ経験、そういうものも全部加味された上で、世界的に有名な会社に入れるかどうかが決まるので、ほかの点で会社に自分を売り込めるようなスペックがなければ、できるだけ満点に近い点数を取るしかないのだ。そして「いい会社」に入りたい学生は990点を目指す。それでもそんな人はたくさんいる。でもそれが一つの条件になっているから、まずはその条件をクリアするために必死で頑張る。学部生で900点以上を取るのは、それなりの勉強時間もかかるだろう。日本人の学生は、その時間、自分の好きな活動をして、会社の人もその活動でどんなことを頑張ったのかを見る。中には英語を頑張った、という学生もいるかもしれないし、それを一つのプラス要因として見せる人もいるが、殆どの会社は英語力をそれほど重視していない。

私はうちの研究科にいる韓国人の友達の内何人かを、それはそれはリスペクトしてる。それは英語ができるからじゃなくて、マルチリンガルだからだ。帰国子女でもなく、それほど長い留学経験がある訳でもない。でも日本にきて2年やそこらで日本語で学術論文を書けるくらいまで勉強して、英語で発表して議論して、自分の研究分野の言語(例えば中国語やロシア語やフランス語)もアカデミックな文章が読めるくらいできる。そういう4カ国語話者の韓国の友人を、私の研究科の中だけでも3人知っている。英語力の競争が激しい韓国で、もう英語ができるのは当たり前。修士・博士の学位を日本で取るのは、アメリカ学位を重要視する韓国社会においては、それほどのプラス要因にならない。むしろ、同じ時間をアメリカで過ごし、アメリカの学位をとってアメリカの「ネイティブみたいな、いい発音」を手に入れる方が韓国社会では高く認知されるから、自分はマルチリンガルで勝負、と思っているのだろう。彼女たちは、日本に来たんだからこれくらいできないと、などと言う。それを自分ですごいと思っている様子など微塵もなく、むしろ「このままだとやばい、もっと頑張らないと」と思っている。

私が韓国で教えていた生徒で、今正規学生として早稲田の学部にいる子たちも、軍隊に行ってる男の子を除き、早稲田の交換留学制度を使ってアメリカやイギリスに留学しているようだ。留学先から留学する、そんなのも当たり前。「日本語だけ」できても、韓国に戻っても仕事を見つけるのが難しいからだという。

私はとあるインターンに応募する際に、高い英語力の証明が求められたのでTOEICを受けて975点を持ってるけど、はっきり言ってTOEICは英語の実力を表すという点について意味がないと思っている。TOEICを受けることが英語力をあげることでもないし、その人の英語力を証明するのがTOEICでもない。英語力があがって、その結果としてTOEICを受けた際に、運がよければ(試験中に途中で嫌気がさしたりせず、集中が続けば)いい点に現れるだろうし、実際英語能力があがるにしたがって、TOEICの英語は対して難しくなく思えてくる。試験自体に集中力も必要としなくなるし、精神的にも負担でなくなる。だから点数が上がる。そういう意味での証明のひとつとしてTOEICは便利だ、というだけだ。

TOEICみたいに点数ででるものは、実際語学の勉強をする際にいいモチベーションになるけれど、TOEICが羅針盤のひとつじゃなくて英語能力を上げる、という目的になっているとしたら悲しいことだ。しかも面白いことに、TOEIC試験は、実際に会話ができなかったり、映画の聞き取りができなくても、必死でテキストを勉強してTOEIC形式に慣れれば、それなりに点数もあがっていく。900点以上とっても英語をはなせない人はいっぱいいる、と韓国で話を聞いた学生が何人も言っていたけど、そりゃそうだ。英語力があればTOEICの点数はそれなりにあがる。しかしその逆はいつも真実ではない。だから高い点数をとっても、自分が満足するだけで実際の生活において意味なんてない、と思った。

もう一つ、こういった英語をうまくなろうイデオロギーで気持ち悪いのは、一貫としたネイティブ信仰。かつ、一番苦手なのは、「いい発音」=ネイティブの発音という考え方だ。人の英語力を評価する上で、どれだけネイティブっぽい発音(主にアメリカ発音をさす)をするか、で評価しているのは、特に韓国でその傾向が強い。英語でちゃんとした議論もできないのに、やたらネイティブ文化圏の行動様式だけ身に付けて、それを自慢げに振り回しているのも気持ち悪いし、日本人でよくいるのは、やたらとアメリカ発音っぽくしようと、アール発音を強調する人。聞いてて疲れるんだよなあ。

一方で、私の知り合いで、国際機関で働いている日本人が何人かいて、中でとても癖の強い日本語アクセントの入った英語、もしくは日本人特有の英語発音に拍車をかけたような英語を話す人がいる。それでも、英語はツールだから伝われば良い、日本人は日本人らしく胸を張って日本語的英語を話せば良い、という人もいるだろう。私はこっちにも賛同しかねる。だってその人の発音は、正直日本人の私が聞いていても聞きづらいし、聞くのが疲れるのだ。

過剰なネイティブ信仰も嫌だけど、癖のある自国語発音の混じった英語を正当化して、その聞き取りを相手に強制するのもおかしい。違う第一言語を持つ人に取って、日本語の癖の入った英語は負担になるから。英語が意思疎通の媒介言語であるならば、誰にとっても分かりやすい、聞き取りやすい英語を話すように、すくなくとも「努力する」、という姿勢が大事だと思う。俺は私はこれでもいいんだ、というのは一番かっこわるいしたちが悪い。

私はよく特にアジア圏の人と話していて、発音がいいと誉められるけれど、それはおそらく日本人の癖がそれほど強くなくて分かりやすい、という褒め言葉だと理解している。いわゆるネイティブ発音、とは違うし、ネイティブ圏の留学経験もない。おそらく聞き取りやすいのは、英語を吸収したのが旅だったり、大学院でのディスカッションだったり、つまり非ネイティブ同士の会話だったから、使っている構文が単純明確で、発音も色んな国の発音が混ざった結果ニュートラルになり、特定の文化背景を背負ったスラングが入らないからだと思う。ちなみにRとLの発音は未だに微妙だし、さっきも言ったけど冠詞とか時制とかはめちゃくちゃだけど、相手は理解してくれる。だって非ネイティブの人は、基本的にみんなそれほど正確さを意識していないから。


言語は好きだけど、英語にそれほど惹かれないのは、英語が背負う文化的バックグラウンドに、例えば韓国語や中国語に持っているほどの興味を覚えていないからだと思う。私がハリーポッターに嵌ったのも、おそらく生まれて初めて、イギリス英語という言葉が表象する一つの世界観や、ものの名前、コミュニケーション方法なんかを面白いなあと思ったからだ。私の音の好みはちょっと変わっているかもしれないが、フランス語には正直音として惹かれない一方で、世界一エロくてセクシーな言語は広東語だと思っている。香港音楽が好きなのも、その多くが広東語の音にぐっとくるからだ。


英語が社会的上昇のマストではないという状況は、日本だからあり得たことで、日本人学生はその状況をもっと自覚し感謝すべきだ。でもそれはイコール、その日本的島国空間に安住してもいいってことじゃない。

英語がマストでなくていいなと思うのは、英語がすごくできる人がいてもいいし、そのほかの言語がすごくできる人がいてもいいという点だ。

日本にはもっと色んな言語を学ぶ人がたくさんいていいと思う。今後の経済活動を考えて、アジア言語に力を入れるのは勿論、とりあえず「全員英語はマスト!」という条件を突きつけられることなく、世界の色んな言語を学べるなんて、なんて自由なんだ。
マルチリンガルはいた方がいいけど、みんながマルチリンガルになるのは難しい。マルチリンガルになれるのは、いい教育的資本を持った中産階級以上の人間だけだし、裏返していえば、教育の恩恵を受けたエリートの使命だと思う。

「英語力について 2」に続く。

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