2017.03.20 Monday
保活のおわり THE END OF "HOKATSU"

保活に3年かかった。
子どもは二人とも早生まれ。
保活は本当に疲れたし、特殊な職のため申請書類を作るのは時間がかかり(×3回)、精神が消耗した。
生後10日の赤ちゃん連れて、帝王切開終えて退院の次の日に区役所にいって、保育ママの申込みに行ったこと。
そこで担当してくれた区役所の女性職員さんたちがみんな優しくて、交互に長男を抱っこしてくれて、大変ねえと声をかけてくれたこと。色んなことを思い出して、今年一番泣いた。
両親フルタイム+加点2種類(昨年度預け入れ月2万円以上で2点、兄弟2人同時申込で1点)の計25点あってやっと第一希望の認可保育園に、兄弟同時に入園することができた。第二希望以降の園は家からそれぞれ違う方向に徒歩20分。兄弟別園になったら本当に大変なところだったが、同時入園できたというのは、本当に運が良かったとしか言いようがない。
有志で作っている保育園コミュニティのアンケート結果を見ていると(2017年3月現在)、住んでいる地区における私が希望を出した上位5つの認可園では、0歳児・1歳児クラスだと両親フルタイム(22点)だけでは入れず、24点(フルタイム+認可外加点)あっても入れない可能性のある園が3つある。それはつまり、25点(フルタイム+認可外加点+保育園児兄弟加点)ないと確実に保育園に入れないということを意味していて、一人っ子(もしくは兄弟姉妹が保育園児ではない)場合は認可に入れない可能性があるということだ。
同時に、私が入れたということは、それ以外に落ちた人がたくさんいるということでもある。
兄弟加点なんてずるい、と言われるのも分かる。
世帯年収高い人が、うちはたくさん納税しているのに!という気持ちも、分かる。
私自身、2年間近くの認可保育園に入れず、片道30分かけて電車で認可外に通っていたとき、お迎えラッシュの17時台の認可保育園の前を通りながら、「この人たちは17時台にここに迎えに来れるのに何故私が入れず16時までしか働けないのか」と黒い気持ちがわき上がって来たことを思い出す。勿論、入れている人になんの落ち度もないし、ただの嫉妬なのだが、とにかく保育園問題は生活もキャリアも、ひいては子どもの生死まで左右してしまう重要な問題なのだ。
保活は、本人の努力や熱意は関係ない。点数と運がすべてだ(年度によって競争率も入れる点数も異なる)。
すべての人が、通える範囲の希望する保育園に入れる社会になって欲しい、と心から願う。
申し込みする人は、去年の点数開示や保育園コミュニティのアンケート結果とにらめっこして、現実的な条件も含め散々迷って希望を出したはずだが、そもそも両親フルタイムでも認可に入るのが難しいのであれば、非常勤やパートで働いている人には、認可保育園に入るなんて夢のまた夢だろう。
Twitterでは#保育園に入りたいや#保育園落ちたというタグが盛り上がっていた。
一方で、保育園に入れないという声に対する批判の声も多く見られた。
それは妊娠や出産や育児など、「極めて個人的なこと(≒贅沢)」と考えられていることに対して弱音を吐いたり、社会問題としての指摘をすると叩かれる、という状況と似ている。
たとえば、妊娠中、通勤辛いというと、「タクシーで行け」「仕事辞めろ」。
保育園入れないと嘆けば、「都心は子育てに向かない、引っ越せ」。
病児保育が予約できないと言えば、「住んでるとこが悪い、引っ越せ(俺は/私は入れたしという経験談付き)」。
今回、保育園落ちた、どうしよう!に待っていたのは、「ベストは尽くしたのか」だった。
「ベストを尽くす」についてあげられるのは、こういうことだ。
・年度の前半に出産(早生まれは論外)
・認証押さえ(必要なら第一希望です・単願ですとウソ)
・役所詣
・ペーパー離婚(片親だと加点が大きい自治体がほとんどのため)
・預けたくないけど0歳児で認可外(認可外加点を得るため)
・引っ越す
これらの全部に、そんなことしなきゃいけないのか、と思う。
勿論認証まで見て回っているけれど、そもそも認可と認証では、少なくとも私の地区では、あまりに環境が違いすぎて、正直自分の子どもを入れたいと思える認証保育園に出会わなかった。補助が有るといっても、認証に二人の子どもを入れるのは、認可に比べてお金がかかりすぎる(私の地区+我が家の収入を元に計算すると認証に二人を通わせた場合、認可の約2倍)。
役所詣には正直効果があるとは思えない。点数が絶対的なのはきっとどの自治体も一緒だろう。
しかしブラックボックスなのは、“同じ点数の場合は、収入やその他事情を配慮して決定する”という部分だ(注:これは私の住んでいる自治体の場合。何度も相談しにいったときにこのように言われた)。
実際、同じ点数の申請者がたくさんいるなかで、収入だけで低い順に入れているのか、他にどんな「その他事情」を配慮しているのかは分からない。世帯収入がほとんど同じで区民税納入額が同じ層だった場合、誰が優先されるのか。この辺はやはり役所の方が熟慮して決めているのだろうが、気になるところではある。
そして引っ越せと簡単に言うが、人はそれぞれいろんな事情があり(そもそも持ち家だったら簡単に引っ越せないし、親二人の勤める場所によって住む場所にだって現実的に様々な制約がある)、人はいろんな地域や人々や会社とのつながりのなかで生きている。そして保育園に入るのがしんどいのは、都心に限られた話でもないのだ。
☆
二人とも早生まれの我が家は、もう出発時点で不利だった。二年間、両親どちらの職場とも反対方向の電車に乗って、保育園に通った。それでも唯一の選択肢だった今の保育園が、偶然にもとても良い園で、毎日楽しんで通うことができたことは、親子ともにとても幸運なことだった。
今10ヶ月の下の子は、今の保育園のことはきっと全然覚えていないだろう。
新しい園にいっても、まるでいつもここにいたかのような顔をして、ニコニコするだろう。
ちょうど2歳になった上の子は、新しい園で最初は少し泣くかもしれないけど、多分持ち前の適応能力で、すぐ新しい園になじむと思う。全員覚えている先生の名前も、お友達の名前も、どんどん新しいものに変わって行くんだろうと思う。
でも私はずーっと覚えている。
ひよこ組(0歳児クラス)で圧倒的に一番月齢の若い下の子が、クラスのみんなに可愛がってもらっていたこと。
半年くらい年上の男の子が、下の子のことを大好きで、いつもそばにいて抱きついたり一緒におもちゃで遊んでくれていたこと。朝連れていくと一目散に飛んで来て、抱っこしたりほっぺたを手で挟んだりしてくれたこと。
帰るときには必ず保育士さんに抱っこされて、下の子が見向きもしなくても、母親の私にまでバイバイ、と言って手を振ってくれたこと。
下の子は誰に構われても、ニコニコと笑う愛想の良い子で、先生や子どもたちにマスコットのように可愛がられていた。一番小さいのに体は一番大きくて、いつも親方のようにどしん、と座り、担任の先生には「りーさん」と呼ばれていた。9ヶ月で立てるようになり、10ヶ月の終わりにはもう安定して歩き回っていた。心臓の大きな手術をして保育園をまるまる2ヶ月くらい休んで入院していたけれど(心臓血管外科手術のこと)、それ以外はほとんど病気もせず、流行病も貰わず、元気に保育園に通うことができた。
りす組(1歳児クラス)さんの中でも一番小さかった上の子。
何ヶ月か年上の女の子に好かれているらしく、積極的に手を引かれて洗面台に向かうときなども、どうしていいかわからず呆然とした顔をしていた。去年まで0歳児クラスで一緒だった女の子のことが好きだったらしく、家ではじめて名前を言ったのはその女の子。「○○ちゃん、好きっ」「○○ちゃん、可愛い」と言ってはくねくね恥ずかしそうにしていたこと。今の保育園で一番在籍が長く、生後2ヶ月から長い間面倒を見てもらった先生が退職するとき、子どもたち代表でお花を渡していたこと。クラスで一番小さいけれどよくしゃべり、完璧主義でプライドが高く、ツンデレと評されていたこと。
先生と私の交換日記のような保育園ノートは、もう二人合わせて10冊近くなった。
火事のときに持ち出す緊急バッグに入っている。
逆説的だけど、毎日遠い保育園に通ったことは長い散歩のようで、電車で出会うたくさんの人と話す機会に恵まれ、夕暮れを見たり、早い御月様を見たり、季節の移り変わりを子どもたちと楽しむことができた(おかげでひどい腰痛持ちになってしまったが)。
大好きだった保育園にもあと1ヶ月ちょっと。
最後まで楽しく通ってほしい。
今の保育園に通えてよかった。
ありがとう、先生たち。
saereal | note
保活のおわり
2016.04.07 Thursday
そのときその場所にいなければ分からなかったことがある
真夜中、新生児に授乳しながら、韓国で韓国語を勉強していた時のことを思い出した。
語学を学ぶ機関での留学経験は、ほかの留学経験とは違う、特別な経験だ。
一つの言語を習得していくという過程で、言語の習得という漠然とした目的だけを共有して、一緒に階段を登る感じ。
当時韓国で働いていた学院(塾)の仕事は午後からで、私は午前中の3時間、ソウル市内の大学付属の韓国語クラスに通っていた。そこの語学堂に決めたのは、そのとき住んでいた家から近かったのと勤務地までの便が良かったから、そして大学付属の語学堂のなかで学費が一番安かったからで、それ以上の特段の理由はなかった。そこには、2級(初級)から4級(中級)まで3学期間通った。
その語学堂にいる学生は、中国出身の子たちが9割以上だった。そこに中国の留学生が集まっている理由は、大学側がビザ関連の手続きに協力的だとか取れやすいとか、そんな理由があったらしい。どのクラスでも、中国人以外の学生はだいたい私一人で、休み時間はずっと中国語が聞こえていた。
中国人留学生といっても色んな学生がいた。
華奢で可愛い女の子達の何人かは、語学堂内で彼氏を作っていた。その語学堂内カップルたちは、軒並み男の子の方がものすごく献身的で、送り迎えを始めとして宝物を扱うように彼女をいたわる姿が印象的だった。特に、毎日休み時間の度に国際電話でお母さんと電話しているとても可愛い女の子がいて、その子の彼氏は本当に何でも彼女のいうことを聞いてあげていた。
兄妹でやって来て、優秀な妹とその夢を叶えるため、自分を犠牲にして彼女に尽くす兄もいた。妹の方は韓国語を頑張ってソウル大学に入学する、という明確な夢があったようだが、兄はその聡明で美しい妹を守り助けることを最優先に生活していて、勉強はほとんどしていなかった。突拍子もない発言と明るい性格で、彼のおかげで授業はとても楽しくなったけれど、彼自身の将来については本人があまり期待をしていないように見えた。妹と同じクラスになったとき、「自分のために生きてくれているお兄ちゃんが大好き」と授業中、韓国語で言っているのを聞いた。
韓国の男性と結婚して家庭に入り、姑さんや家族と話すために韓国語を学んでいる子もいた。ものすごく金持ちの子だけど遊んでばかりいて、ドロップアウトして行く子もいた。語学堂では学期に二回大きな試験があり、ある程度の基準を満たさないと進級できない。なかには韓国に来たけれどアルバイトや恋愛や夜遊びをするなかで勉強する目的を失ってしまっている子で辞めて行く子も何人もいたし、勉強には取り組んでいるけれど語学の習得ができない子(おそらく何らかの学習障害を持っているのだと思う)もいて、級が上がるごとに何人かがいなくなっていった。
偶然だが、仲良くなった中国人の留学生は、寒い東北の省の出身者が多かった。北部出身の彼らは休み時間に外に集まって煙草を吸いながら、広い中国では地域によって人柄に特性がある、と言い、たぶんいわゆるステレオタイプなのだと思うのだけど、南の人間はこうだ、俺たちには合わないんだ、といい、あまり積極的に他地域の学生とつるもうとしていなかった。見ていると、上海出身の子達はその周辺出身者とつるみ、南部出身の子達も同様で、出身地域が近いもの同士で仲良くなっている印象を受けた。
東北部の出身者の中には朝鮮族の子達もいたが、朝鮮族だけど韓国語(朝鮮語)はほぼできない、という子たちは中国アイデンティティが強く、ビザ上は朝鮮族のビザでも、朝鮮族という括りで固まっている様子はあまり見られなかった。朝鮮族以外の子達に比べて、韓国へのビザがおりやすいという理由は確かにあるようだったが(当時)、だからといって心理的に韓国に近いという印象もなかったように思う。加えて、朝鮮族のビザで来ている子達は、多くが韓国の大学進学や語学習得自体を目的としている他の漢民族の中国人の子達と違い、より多様な目的を持っているようだった。たとえば就労であったり、結婚であったり。そういう子達は、留学生として韓国語を学んでいるグループとはあまり交流もしなかったし、授業後に一緒にご飯に行ったり、遊びに行ったりという姿もほとんど見られなかった。
☆
中国の子たちばかりの環境で疎外感や居心地の悪さを感じなかったのは、中級になってだいぶ韓国語での意思疎通ができるようになったこと、私に話しかけてくれたり構ってくれる中国人の子達が何人もいたからだと思う。
Sは初級のクラスで出会った日本人の女の子とつき合って、毎日何時間もスカイプばかりしていた。恋愛して、バイトして、稼いだお金を全部自分のファッションと彼女へのプレゼントに費やし、一度留年して、あとから入った私と同じクラスになった。相変わらず勉強はしていなかったけど、会話は上手で、減らず口を叩くのに語学堂の韓国人の先生たち(ほぼ全員女性だった)にもすごく好かれていた。母性本能をくすぐるタイプの不良だったのだと思う。
Hは中級での席がとなりだったので、授業中によく韓国語と中国語の混じったメモを交換して遊んでいた。私が好きな台湾歌手の歌を聞いて、聞き取れない部分を書き起こしたりもしてくれた。毎日数時間の睡眠で、深夜営業をするチキン屋さんの早朝清掃のバイトをしていた。(私から見れば)差別的な扱いを受けながらも、雇用者を「社長様(さじゃんにむ)」と呼び、時給400円位(当時)で毎日朝2時間働いていた。中国では割とキラキラネームっぽい変わった名前をしていて、複数のクラスにまたがって友人がたくさんいてよく声をかけられていて、クラスでもムードメーカーだった。
Yは中級のクラスで私の次に成績が良かった。中国人留学生のなかではすごくまじめに勉強をしている方だったし、授業中もよく質問などもした。性格もまじめで、いつも割ときちんとしたカッコをしていた。一方、私や上記の二人と仲良く遊んで、クラスでも二人とは違った意味で周りに刺激を与える存在だったと思う。その後、韓国でも有名な私立大学に合格し、その後ソウルに行ったときに一度会った。韓国語は格段に上手くなっていたが、韓国人学生に囲まれての生活と勉強は大変だと言って、少し痩せていた。
私の帰国が決まったとき、上の三人とカラオケに行った。Sはおばあちゃんから教わったという「四季の歌」を日本語で歌った。日本語は全く分からないけど、音で覚えているという。Sはその言葉を使わなかった(おそらく韓国語でなんというか分からなかったのだと思う)が、「戦争のあと日本に帰らずに中国(元満州のあった地域)に残っていた」と言っていたから、たぶんおばあちゃんはいわゆる残留孤児だったのだと思う。所々歌詞の適当になるその「四季の歌」を聞きながら、時代を越えて、日本人の彼女に熱を上げるSに受け継がれた日本とのつながりを、なにか切なく思った。
そのときその場所にいなければ分からなかったことがある。韓国語を学ぶ過程で、私はたくさんの中国人留学生と会った。ただ一緒に同じときを過ごしていた人もいれば、ただ一方的に観察していた人、中には一緒に深い時間を過ごした人もいる。そこで知ったことや感じたことのひとつひとつは本当に些細なことだし、中国人学生の韓国語語学研修留学という事象の1ケースで、ひとりの多様な人生のほんの一面に過ぎない。でも、そこで一緒に同じ時間を過ごし、会話し、出来事を共有したからこそ知り得た何かもたくさんある。自分のなかに知識と経験が溜まって行けばいくほど、その特殊性や意外性に気づき、それらがとても豊かで魅力的なことを知り、少しずつ寛容になっていく。
私にとって国際的であるということは、自分の受け皿がどんどん広くなっていくことと同義だ。